藤田嗣治の作品35点、永眠のランス市に寄贈 Remise d’œuvres de Tsuguharu Foujita à la Ville de Reims

皆さんは藤田嗣治(ふじたつぐはる)という人物をご存じでしょうか。1920年代にパリで活躍し、現在もフランスで最もよく知られている日本人画家です。おかっぱ頭とベレー帽がトレードマークになっています。この藤田は、現在フランスのランスReims市に生前自ら建てた「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita (Notre-Dame de la Paix)というところで永眠しているのですが、このほどこの礼拝堂の近くに藤田の作品を集めた美術館が建てられることになり、10月22日(月)にご遺族の方が遺作をランス市に寄贈されました。

藤田は1886年生まれで、当時の東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、1913年に渡仏して、モディリアニやピカソなどと交友を結びました。やがて1921年にサロン・ドートンヌという展覧会で「乳白色の肌」という独自の精緻な表現が絶賛を集め、一躍当時の「エコール・ド・パリ(パリ派)」を代表する画家になります。その後日本に凱旋帰国しますが、日本の美術界の反応は嫉妬も含めて思った以上に冷淡で、彼を落胆させました。第二次世界大戦期には戦争画を嘱託され、彼はこの戦争画に新しい表現世界を見出してのめり込んでいくのですが、終戦後はそのことが原因で軍部協力と批判されることになります。当時の日本美術界は他の画家たちの保身のために、彼一人に責任があるかのように振舞ったのです。彼は多くを反論することなく、美術界の全ての戦争責任を一人で背負うようにして再びパリに向かい、二度と日本には戻りませんでした。晩年はフランス国籍を得て、さらにカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとって)となりました。晩年に手がけた最後の大作は上述の礼拝堂内部のフレスコ画で、その完成を待ったかのように膀胱癌による入院生活を余儀なくされ、1968年にスイスのチューリヒの病院で81歳の生涯を閉じました。まさに生涯を戦争と中傷に翻弄された画家でした。

今回ご遺族からランス市に寄贈されたのは1922年作の「自画像」や1932年作の「マンゴー」や1963年作の「猫」など計35点です。寄贈式はランス市の市役所で行われて、藤田のご夫人の甥にあたる方とランス市の市長が文書に調印されました。この美術館は2018年オープンの予定で、総面積1万平方メートルの館内に、約240平方メートルの「フジタ展示室」が設けられる計画です。

私が藤田の名前を知ったのは、大昔のフランス留学時代に過ごしたパリ国際大学都市の日本館で壁一面に飾られていた「欧人日本への渡来の図」という彼の作品を通してです。それ以来この藤田について次第に詳しく知るにつけてこの人物のことが何となく頭から離れなくなり、今年の5月のフランス出張のときに、ランス市に立ち寄ってフジタ礼拝堂を見て来ました。残念ながら開館時間ではなかったので中に入ることは出来ませんでしたが、それでも静かな町中に溶け込んでいるこじんまりとした建物が印象に残りました。また、ランス市のノートルダム大聖堂には藤田が洗礼を受けている大きな写真が何枚も飾られていて、彼のフランス社会における存在の大きさを垣間見たような気がしました。

なお、名古屋からは少し遠いのですが、現在北海道立近代美術館で「藤田嗣治と愛書都市パリ-花ひらく挿絵本の世紀-」という特別展が開かれています。期間は2012年9月15日(土)~2012年11月11日(日)です。(2012.10.22-2012.10.26)

(このニュースに関するランス市のアドリーヌ・アザン市長のブログはこちらを参照してください。)

カテゴリー: フランコフォニーの手帖 Les cahiers de la Francophonie (par フランス語科教員) タグ: , パーマリンク