河村雅隆: radio périphérique という放送局

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

先にフランスの選挙予測報道のことについて書いたところ、読んで下さった何人かの方から、文中で触れたradio périphérique(周辺国のラジオ局)とはどのような放送局なのかというお訊ねを頂いた。有難いことである。そこで今回はこの点について少し記してみたい。

radio périphériqueについて語る時、まず押さえておかなければならないのは、ヨーロッパ、特にフランスの放送は1980年代の前と後とでは全くと言っていいくらい別の世界だということである。第二次世界大戦の終結から1980年代に至るまで、フランスの放送は今とは異なり、国が深く関与するラジオ局とテレビ局による独占状態が続いた。

フランスでは戦間期にはいくつかの民間のラジオ放送が存在していたが、第二次大戦後、それらは国によって接収され、最終的に1964年、国営の放送機関ORTF(フランス放送協会)となって国家の管理下に置かれた。政府が放送を独占していたという点においては、戦後のドゴール以前の第4共和政の時代も、ドゴール・ポンピドゥー両大統領の第5共和政の時代も同じことだった。特に第5共和政の時代、放送はドゴール派の政権を支えるツールとして重視され、強大な力を発揮した。ポンピドゥー大統領はORTFの放送のことを「フランスの声」と呼んだ。そして興味深いことには、ORTFから冷遇されがちだった左派の社会党も共産党も、国家による放送の独占という点に関しては、同じように肯定する姿勢を示していたのである。

そのORTFは1974年、非ドゴール派出身の初めての大統領であるジスカール・デスタンによって解体され、テレビ局としてはTF1(Télévision française 1)、A2(Antenne 2)、FR3(France-Régions 3)、ラジオではRF(Radio-France)が誕生した。しかしこれらの放送局も依然として国の管理下に置かれ、民間放送が生まれたのは、戦後初の左派政権である社会党・ミッテラン大統領の時代になってからのことである。1986年放送法はTF1を民営化し、フランスに最初のテレビの民間放送が誕生したのである。

前置きが長くなってしまったが、radio périphériqueというのは、民放がフランスでスタートする以前から、隣接する国からフランス国内を対象に放送を行ってきた仏語による商業放送局のことである。ルクセンブルクに本拠を置くラジオ・リュクサンブールや、モナコのラジオ・モンテカルロなどがその典型で、それらの多くは経営形態は当時とは違っていても、現在も活動を続けている。

では、どうしてそのような国外からの放送局が、フランス国内をターゲットに放送を行っていたのだろうか。いちばん大きな理由は、ORTFの放送があまり面白くなかったからである。ORTFの番組にはフランスの伝統や文化を紹介するものが多く、特に若い聴取者の中には内容に不満を感じる人たちが少なくなかった。radio périphériqueはそうした層をターゲットに最新の音楽や芸能番組を数多く放送し続けた。その結果、ORTFを聞く人たちの数は徐々に減少していった。また周辺国からのラジオ放送はニュース取材にも積極的で、特に1968年の5月危機の際は、ORTFのカバーしない対象を取材し、生放送も積極的に行って、聴取者の数を増やした。

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ここで興味深いのは、民間放送が誕生するまでの時代の、フランス政府のradio périphériqueに対する対応である。当時、政府は国外から流入してくる放送を妨げようとはしなかった。そうした放送を黙認するだけではなく、むしろ周辺国からのラジオを、ORTFの放送に満足しない人たちに対する「ガス抜き」として利用しようとしていたのである。radio périphériqueの多くはフランス国内にスタジオなどの制作拠点を持っていたし、ラジオ・モンテカルロに至っては、南フランスに自前の送信所すら保有していたのである。radio périphériqueは、情報が国という枠を越えて流通する時代の先取りだったのかもしれない。

さらに面白いのは、フランス政府はSofiradと呼ばれる、いわば持ち株会社を通じて、radio périphériqueの株式を多く保有していたことである。そのことによって、フランス当局は周辺諸国からの放送を行うラジオ局の経営者の選任や放送内容に対し、影響力を行使していたのである。

何とも分かりにくい話だが、要は政府は国による放送の独占を維持しながら、放送の限定的な多様化を導入しようとしていたのである。しかし、こうしたきわめて人工的な放送体制には、時代とともに無理が目立つようになってきた。放送の多様化を求める声の高まりと技術革新の進展。放送を統治の道具としてあまりに利用してきたゴーリスム(ドゴール主義)への反発。そうしたもろもろの要素がからまりあって、ミッテラン大統領は1986年、国家による放送の独占体制に終止符を打ったのである。

しかし、民間放送が誕生して国による放送の独占がなくなったことによって、フランスでは国の放送に対する影響力がなくなったかと言えば、そうとは言えない。ルイ14世時代のコルベール財務総監以来、フランスの政治と社会には、国家主導で経済を動かしていくことを重視し評価する傾向がきわめて強い。それは「国家性善説、企業性悪説」といった考え方にも通じている。

そのような「伝統」を踏まえ、政府は放送局に対しても、人脈などを通じて影響力を行使しようという姿勢を今も崩していない。フランスの新聞を見ていると、人事を報じる際、’ Y proche de X(X氏に近いY氏)’ といった表現に頻繁に出くわすが、そうした人間関係の重視は放送界に対しても依然として及んでいると言われる。フランスの放送局を訪ねると、以前は政治家のスタッフとして、あるいは官庁で働いていたという幹部と出会うことは珍しくない。付言すれば、フランスの官庁の一定以上のクラスの公務員は、日本で言うところの特別職であって、政治家に従って入省し、そこで官房を形成することがごく当たり前に行われている。日本でそうした人事が定期的に行われているのは、大臣の政務秘書官くらいのものだろう。

radio périphériqueの話から最後はやや脱線してしまった。他所様の国のことを正確に理解することは本当に難しいが、以上のような話は、2014年度後期に参加する教養の「文化事情(フランス)」という授業でも触れられないかと考えている。

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