河村雅隆: 私にとってのモラリストたち

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

フランス語科の先生方も読まれるHPにこんなことを書くのはおこがましい限りだが、昔私も多少、フランスのモラリストと呼ばれる人たちの文章を読んだことがある。ラ・ロシュフコーとかモンテーニュとか。ウィキによれば、モラリストとは「現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のこと」とされている。つまり人間観察者といった存在がモラリストなのであり、それは日本語の道徳家とは意味が違う。

フランスのモラリストの本はそのようにいくつか読んだが、むしろ私に大きな影響を与えたのは、フランスのモラリストから影響を受けたであろう、日本のモラリストたちの方だった。『人間素描』を書かれたフランス文学者の(と言うにはあまりに大きな存在の)桑原武夫氏や、『人はさびしき』を著した編集者の小林勇氏は、文章の形式こそ断章や箴言ではなかったが、私にとってまさに人間観察者と言うべき存在だった。それらはクールで鋭利ではあっても、決して冷淡ではない文章だった。

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ご本人は意識されていたかどうかは知らないが、評論家の臼井吉見氏も私にとってのモラリストだった。硬直したイデオロギーが跋扈し、「正義は我のみにあり」といった言説が流行する中、物事を色々な角度から見ていこうという氏の姿勢は、臼井氏が単独編集し、筑摩書房から出ていた「現代教養全集」からはっきりと読み取ることができる。

昔、私はこのシリーズを古本屋で見掛けるたび買い足して、かなりの数を揃えていたが、引越しを繰り返す中で、ほとんどどこかへ行ってしまった。いずれにせよ、私の知識やものの見方は臼井氏の編んだこの全集によって、かなりの部分規定されている。臼井氏は「社会や体制を変えたら人間はたちまち幸せになれる」といった考え方に強い疑念を呈していたが、それは私自身の思いでもあった。

私にとって、もうひとりのモラリストは作家の石坂洋次郎氏である。私の世代の人間なら、誰でも一度は氏の原作を映画化した日活映画を見たことがあるだろう。そして、その原作の何冊かには目を通したことがあるだろう。しかし今、氏の小説は全くと言ってよいくらい読まれない。今の学生諸君はその名前さえ知らないだろう。

氏の小説の中で、私が事あるごとに思い出す一冊がある。氏が教師を務めたことのある、秋田県横手市を舞台にした『山と川のある町』という作品である。その小説の中で、登場人物のひとりは自分の人生観をこんなふうに語っていた。

「人間は小数点以下の感情を切り捨てなければならない、と思うんだ」

それはたしかこんな意味だった。人間誰だって、毎日の生活を生きていく中で、自分が思ってもいなかったことを口にしてしまったり、自分の思いとは反対の振る舞いをしてしまったりすることがあるだろう。しかしそんな時、ひとつひとつの失敗に拘泥するのでなく、自分が「トレンド」としてどのような方向を目指し、どのように努めていくかということことこそが大事なのだ・・・。

石坂氏は登場人物にそんなことを語らせていたように記憶する。その小説を読んでから、もう何十年も経ってしまったが、相変わらず自分は毎日のように、自分の言ったことや思いがけずしてしまったことを悔い続けている。そしてそのたびに石坂氏の文章を思い出す。その一行を書かれただけでも、石坂氏は私にとってモラリストであり、人生の師である。

 

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