寛容は非寛容に対しても寛容であるべきか(河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

寛容は非寛容に対しても寛容であるべきか。いきなり理屈っぽく、また分かりにくい題名だが、これはフランス文学者である渡辺一夫氏の有名な文章のタイトルから借用したものである。寛容と非寛容の相克という問題は、ヨーロッパだけの問題ではない。アメリカでもどこでも、今や世界中がこの問題に直面している。

言うまでもないことだが、人間の歴史とは異なった宗教や思想のぶつかり合いの歴史でもある。「人間はこの世の中に善をもたらそうとして、それと正反対の結果をもたらしてしまう」とはよく言われることだが、昨今の中東を震源地とするイスラムの原理主義や、東ヨーロッパの民族問題などを見ていると、人間にとって、自分と異なる考え方や宗教の存在を認め、それと共存していくことが如何に難しいかを痛感させられる。

自由とは本来、自分と同じ考えや自分の信ずる宗教に対し存在を認めることではなく、自分と違う、自分が反対している考え方に存在を認めることである。そうしたことは頭では分かっていても、実際の社会の中でその原則を守っていくことは本当に難しい。ここで紹介したいのは、私がアメリカにいた頃、信教の自由、表現の自由をめぐって交わされた激しい論争のことである。それはこんな事件だった。

2006年3月、ひとりのアメリカ人の海兵隊の兵士がイラクで亡くなった。彼の遺体はアメリカに運ばれ、東部メリーランド州の墓地に葬られることになった。その兵士は同性愛者であったと伝えられている。そのことからこの葬儀をめぐって、家族は予想もしなかった事態に巻き込まれることになった。「同性愛は神の意志に反した不道徳な行為であり、アメリカの社会や軍はそうした同性愛者の存在にあまりに寛大だ」と主張する一部のキリスト教徒が葬儀の場に押し掛け、「神は同性愛者を罰した」と声高に主張したのである。これに対し、兵士の家族は耐えがたい精神的な苦痛を被ったとして訴えを起こした。裁判の最大の争点は言うまでもなく、葬儀という場でこのような主張を行うことは、アメリカの憲法が保障する言論・表現の自由の保護対象となるのかどうかという点にあった。

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そのキリスト教徒は、キリスト教の伝統と影響力がきわめて強い、中西部カンザス州のバプティスト派の教会の信者だった。教会と言っても、牧師を中心に子どもや孫といった家族が信者の大半を占める、アメリカのどこにでもあるような小さな集団だった。彼等はその教会を拠点に、この20年間、あらゆる機会をとらえて同性愛に反対する活動を繰り広げ、最近では自分たちの主張を伝える場として、葬式という場も選ぶようになっていたのである。

日本人の感覚からすれば、どんな主義や主張があるにせよ、何も亡くなった人のお葬式の場まで押し掛けて、遺族の前でそんなことまで言わなくてもいいじゃないか、というのが普通の感情だろう。しかしアメリカやヨーロッパの場合、多くの人を動かして行くのは何よりも観念でありコーズ、つまり原理原則である。裁判の場では信教の自由という原理原則をめぐって激しい議論が戦わされたのである。

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この事件で宗教家たちの取った行動に対しては、いくら原理原則を重視するアメリカ人とは言え、「あまりに非常識だ」という反発が噴き出して、人々の同情は亡くなった兵士の家族に集まった。しかし法律論は、そうした感情とは必ずしも一致しないことがある。一審は亡くなった兵士の家族の主張を認めたものの、控訴審は逆に、「多くの人たちが関心を持つ問題を取り上げることは、表現の自由の最も重要な点である。同性愛をどう考えるかということもそうした問題の一つだ」と判断し、信者の行為はアメリカ合衆国憲法が保障した言論・表現の自由の範囲内の行為であると判示した。

この判決に対しては当然、様々な立場の人たちから強い反発の声が上がった。しかし一方で、この判決を支持した人たちも少なくなかった。そして最終的に2011年3月、連邦最高裁は控訴審の判断を支持し、教会の信者たちの行為は憲法の保障する表現の自由の範囲内のものとして認められた。この判決にあたって、裁判官九人のうち八人が多数意見を構成し、教会側の主張を認めたことは、人々に大きな驚きをもって受け止められた。近年、意見の対立する問題について、最高裁の判断は5対4か4対5というかたちで下されることが大半だからである。

この事件について、どのような考えが平均的なアメリカ人の市民感情なのかを把握するのは容易ではない。ただ一般論として言えば、市民感情と判決が食い違ってくることは、特に言論の自由や表現の自由が争点となった裁判の場合、ままあることである。以前、イリノイの田舎町でナチスの制服を着て行進した右翼団体の行動をめぐって、それを表現の自由が許容する行為と認めるかどうかが争われた裁判があった。裁判所は、それを表現の自由の範囲内の行為だと認めている。

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イラクで死亡した兵士の葬儀をめぐる動きをフォローしていて興味深かったのは、アメリカの新聞に次のような言葉が引用されていたことである。それはかつてアメリカの最高裁判所裁判官として、アメリカの司法界をリードしたフェッリクス・フランクファーター判事の、「自由の守護者(注:それは自由を守る人たちという意味であり、それは自由という概念と言い換えてもいいだろう)は、我々がお付き合いしたくないような人たちを巻き込んだ論争の中で鍛えられてきた」という文句だった。大胆に意訳してしまえば、その意は、「法律をめぐる論争においては、お付き合いしたくないような、具体的な人間のことはいったん脇に置いておいて、あくまで一般論としての法律論を交わすべきだ」とでもいうことになるのではないかと思う。

人類はこれまで、「寛容は非寛容に対しても寛容であるべきか」という問題を、数え切れないくらい自らに問うてきた。イラクで亡くなった兵士の葬儀をめぐる裁判は、人類にとってそうした問いかけの一例だろう。そして、例えば人工妊娠中絶を行う産婦人科医に対する殺人など、今回と似たような事件はアメリカで頻発している。急速に進行するアメリカ社会の分裂という現象が、「寛容と非寛容」という問題をいちだんと複雑なものにしているようである。

 

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エクサンプロヴァンス滞在記 (飯野和夫)

飯野和夫(フランス思想、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

2015年9月、私は名古屋大学の協定校であるエクス・マルセーユ大学の「言語・文学・芸術大学院博士課程 École Doctorale Langues, lettres et arts 」に一カ月間の招へい教員として招かれた。この大学院のある、南仏プロヴァンス地方の都市エクサンプロヴァンス Aix-en-Provence (<プロヴァンス地方のエクス> の意、以下、エクス) で9月のほぼ全期間を過ごし、この大学院の教員と研究交流の打ち合わせをし、セミナーに出席し、講演を行った。この文章では、滞在中の経験も交えて、エクスというフランスでは有名だが、日本ではあまり知られていない町を紹介したい。

Google Map 日本語版のエクサンプロヴァンスの地図はこちら
Wikipedia 日本語版のエクサンプロヴァンスの項はこちら

エクスは現在、人口14万人ほど。この町の起源は、紀元前123年にローマの執政官セクスティウス・カルウィヌス Sextius Calvinus によって宿営地が設けられたことに遡る。湧き水の多いこの地は Aquae Sextiae (セクスティウスの水) と呼ばれ、このアクアエが訛ってエクスとなったとされる。12世紀末(1189年)にプロヴァンス伯爵領の首都となり、15世紀初頭(1409年)には教皇の勅許を得て大学も設置され、文化と学術の中心地としての道を歩み始める。1486年にプロヴァンスはフランス王国に併合されるが、1501年にはフランス国王ルイ12世によってプロヴァンス高等法院が設置された。このようにエスクは格式ある歴史を持つ町である。

私はプロヴァンス地方は初めての訪問だ。この地を訪れると風景がクリーム色あるいは淡い山吹(やまぶき)色の色合いを帯びていることが印象的である。自然の崖や、人の手によって切り開かれて崖状になったところでは必ずクリーム色の岩肌がむき出しになっている。土の色も、雨が少ないことも関係しているかもしれないが日本の土よりやや白っぽく感じる。街路樹として多く見かけるプラタナスの幹がやはり白っぽい部分を持つことも、この土地の色彩上の印象の形成に与っている。そして、特にエクスは、建物も大半がクリーム色や淡い山吹色だ。天然石の建物の色もそうだが、石造りの古い建物を補修して色を塗る場合も、また、コンクリートブロックのようなもので新築される民家も外壁はこの系統の色を基調にしている。こうしたクリーム色系の色のグラデーションの端に、建物の屋根の西洋瓦の赤みの入ったオレンジ色が来ることになる。

CIMG0356クリーム色の岩肌

気候だが、私の滞在した一カ月間は結局「まだ盛夏」という印象だった。月の後半になると、夜はかなり涼しくなったが、昼間は気温が上がった。ミストラル〔ローヌ川沿いに地中海に向けて吹き下ろす、冷たく乾燥した強い北風〕という言葉は9月上旬からメディアで見かけ、9月23日には本格的なミストラルが吹き、かなり冷え込んだ。しかし、その後また暑さが回復した。結局、9月初めの最高気温が30°C くらい、9月末で26°C くらいだった。また、降雨は極めて少なかった。ほぼ一カ月の滞在中、本格的に雨が降ったのは一晩だけだった。

南仏のプロヴァンス地方、そしてコートダジュール地方にはリゾートが数多いが、その中でもエクスは有力な土地のようだ。9月初めにエクスに入った時は、いまだヴァカンス真っ盛りといった風情で、町全体が祝祭のような雰囲気だった。この時は私としては、学校も新学期を迎え、人出は9月中に減っていくのではと予想していた。しかし、結局エクスの町は、9月末に私がエクスを離れるまで人出の目立った減少はなかった。当地の人に聞いたところでは、10月半ばになると冷え込むようになって、さすがに人出は減るそうだ。しかし、冬を過ぎて3月半ば頃からはまた人出が戻るのだそうだ。訪れる人は、7月・8月のヴァカンスの盛期は文字通りのヴァカンス客(仕事の休暇を取って訪れる人)が多く、その前後は仕事をリタイアした人たちの訪問が多いとのことだ。また、最も暑い8月は、エクスには海があるわけではないので、ヴァカンス客はむしろ海岸の保養地を好むとのことだった。

CIMG0120行楽客で賑わう旧市街の広場

プロヴァンス地方には、世界文化遺産が四つある。登録順に、オランジュのローマ劇場と凱旋門、アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物、ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水道橋)、アヴィニョンの歴史地区だ。エクスには、これらに匹敵する旧跡は残っていない。古代劇場もあったようだが、その後の町の再編成の中で取り壊されたようだ。しかし、古い町並みはかなり広範囲に残っており、エクスの売り物はむしろこの町(旧市街)自体、その雰囲気全体なのであろう。世界遺産クラスの旧跡も、一度訪れてしまえば、その旧跡自体に何度も通う意味は減っていく。また、旧跡を有する町も、京都やパリのように、見るべき旧跡が多数存在するというわけではない。結局、町全体の魅力が問われるならば、エクスは今名前を上げた各地に匹敵し、凌駕さえするということのようだ。アルル、アヴィニョンはどちらもエクスからバスで一時間ほどで行くことができ、私も9月末に訪れた。9月末というヴァカンスの盛期を外れた時期での比較ではあるが、人出はむしろエクスの方が多かった。

CIMG0097旧市街の繁華街

エクスの町の中心部は環状の道路(反時計回りの一方通行)に囲まれている。その道路が作る円の直径は1 km に満たない程度である。この道路は、かつて町を取り巻いた城壁を19世紀に取り壊して作られたとのことだ。この町の中心部のやや南寄りを東西に、町のメインストリートであり、17世紀に馬車用舗装路として作られたというミラボー通りCours Mirabeau が貫いている。この道の北側はいわゆる旧市街 Vieil Aix で古い町並みが保存されている。南側はマザラン地区 Quartier Mazarin と呼ばれ、かつての貴族たちが館を構えた地区であり、こちらも革命前に遡る歴史を持っている。旧市街の多くの街路は、道が狭いこともあり、住民の車と荷物搬入のための車以外は進入できない。その結果、親しみやすい通りが面として広がり、旧市街全体が歩行者天国のようになっている。環状道路の内側が古いまま保存されている分、現代的なホテルなどはこの環状道路の外側に立地しているようだ。多くの観光客が車で来るようだが、彼らはそうしたホテルに車を置いて、歩いて旧市街を観光をすることになる。

CIMG0042 (1024x768)町のシンボルの大噴水。西に位置するバス・ステーションや鉄道駅から
町の中心部に向かうとこの噴水が迎えてくれる。噴水の向こう側が町の中心部。

CIMG0040大噴水を越えると町のメインストリートであるミラボー通りCours Mirabeau に
入る。左側が旧市街、右側はマザラン地区。

CIMG0373環状道路の一部をなすセクスティウス通り Cours Sextius.  右が旧市街側。

CIMG0082車止め。カード式の許可証を道路脇の機械 (写真には写っていない) に認識させると
車止めが下降して車が通れるようになる。また、エクス旧市街の多くの道路は、
中央が低くなって雨水などを集める伝統的スタイルをとっている。

旧市街は、入り組んだ狭い道のそれぞれにファッションの店やみやげ物店が軒を連ね、上品なショッピング街になっている。ファッション関係のブランドショップも多い。有名ブランドがプロヴァンス地方に出店する場合、近隣の大都市マルセーユ(距離にして33km, バスで30分ほど)よりエクスが優先される場合があるようだ。マルセーユから、ブランド品を求めてエクスに買い物に来る人たちがいるとのことだ。ただし、2014年5月にはマルセーユのウォーターフロントにブランドショップも含む大型ショッピングモール “Les Terrasses du Port” が誕生したので、こうした状況が変わっていく可能性はある。付言すれば、エスクは多くの訪問者を集め、彼らが落とすお金で潤っており、マルセーユはその豊かさを当てにして、エクスと協力して政策を展開したがってきたとのことだ。なお、マルセーユとエクスは都市圏を作っているとされるが、実際には両者の間は民家も途切れて森が広がっており、日本人がイメージするような連続的な市街地を形成しているわけではない。

CIMG0297cしゃれた店が古い建物を改装して入っている

CIMG0073噴水があり、カフェの屋外席で人がくつろぐ旧市街の一角

CIMG0093旧市街の裏道

エクスの旧跡は小粒だが、町の中に溶け込んで存在している。2世紀にまで起源を遡るというサン・ソヴール大聖堂 Cathdrale Saint-Sauveur には、ニコラ・フロマンの『燃ゆる茨』(Wikimedia による画像) の三連祭壇画があり(教会内の小礼拝室にあるが、残念ながら近くには寄れず、暗くて見にくい)、中庭の回廊もすばらしい。街の中にはローマ時代まで遡るであろう泉がいたるところにある。旧市街の北の外れにはローマ時代の浴場 Thermes Sextius の遺跡もある。ただし、現在、遺跡の土地は民間資本が所有し、遺跡も利用して「温泉リゾート」として営業している。敷地内に入って写真撮影程度はできるが、遺跡の間近まで行くことはできない。浴場遺跡はアルルにもあり、こちらはエクスのものに比べて大きく保存状態もよく、中まで入ることができる。やはり旧跡の点ではエクスは他の都市の後塵を拝してしまう。なお、この浴場遺跡のそば、旧市街を出たところにはパヴィヨン・ドゥ・ヴァンドーム Pavillon de Vendôme という17世紀の貴族の館がよい状態で残っている。

CIMG0057サン・ソヴール大聖堂 Cathdrale Saint-Sauveur

CIMG0118m
回廊

CIMG0387
Pavillon de Vendôme

一方、マザラン地区には、18世紀の貴族の館を改修したコーモン美術センター Caumont centre d’art が最近開館した。この建築も Pavillon de Vendôme と同様にかつての貴族の生活を偲ばせる。グラネ美術館 Musée Granet も収蔵作品の数は多くないが楽しめる。ただし、エクスはセザンヌの故郷であることを強調しているものの、現在エクスに残されているセザンヌ成熟期の油彩画は、残念ながらごく小さな一品だけだ。後述するセザンヌ晩年のアトリエにも油彩画は残されていない。(他に、セザンヌの初期のアトリエが残っており、ここでは初期の壁画も見ることができるようだが、私は訪れることはできなかった。)

CIMG0401セザンヌ晩年の小品 (Musée Granet)

CIMG0402
こちらはアングルの大作 (Musée Granet)

CIMG0425
ピカソ (Musée Granet 別館)

私は滞在の最初の一週間ほど、サン・ソヴール大聖堂のすぐそばの旧市街のアパルトマンを借りた。日本で言う一階だったが、居間の壁は元はローマ時代の城壁だと大家は言っていた。真偽のほどはわからないが、そうである可能性はあると思う。建物も大革命以前からのものだとか。また、このアパルトマンから50mくらいのところの狭い道路で、水道かなにか工事をしていたのだが、私が何気なく工事の穴をのぞくと、工事の穴の底の方に横穴が口を開け、横穴の壁は石積みになっている。何かと思っていたら、近くに住む女性が、サン・ソヴール大聖堂からの地下の抜け道で、ローマ時代のものだと教えてくれた。確かに サン・ソヴール大聖堂は2世紀に建立されたとも言われるらしいが、年代はともかく地下道であることは間違いなかった。公開されている様子はないので、こうしたものを見られたのは運がよかったのかもしれない。

CIMG0288c工事の穴の底の方に横穴。ローマ期の抜け道?

現代のエクスは学生の町でもある。エクス・マルセーユ地区の大学は豊かな歴史を持ち、フランスの有力大学の一角を占めてきた。ちなみにフランスの大学はすべて国立である。2012年には、この地区の三大学が合併し、エクス・マルセーユ大学という、学生総数8万人というフランスさらにはフランス語圏で最大の大学が発足した。この内、法学部、文学部、経済学部などの文系学部のキャンパスはエクス中心部の南側、環状道路から徒歩でも10分から10数分のところに互いに近接して置かれている。大学以上の格を持つとされる高等教育機関グランドゼコールの一つであるエクス政治学院 (Sciences Po Aix) は旧市街の古い建物を校舎にしている。学生は品格ある文化の町エクスを構成する極めて重要な要素となっている。なお、私は、やはり市の南部にあり、各学部のキャンパスにも歩いて通える「大学都市 Cité universitaire 」の学生・教員用の寮で滞在期間の大半を過ごした。ここには学生食堂が併設されており、ここで生活している学生に限らず、一般の学生が昼食や夕食をとりに訪れる。安価な学生料金で食事ができるため、特に昼食時は多くの学生が列を作る。

CIMG0037法学部。大学の校舎は基本的に近代建築だが、この校舎は伝統を取り入れた
デザインになっている。

旧市街を出て北方に 1 km もいかない所にセザンヌ晩年のアトリエがあり公開されている。そこからさらに 1 km ほど坂道を登ると、セザンヌがサント・ヴィクトワール山 Montagne Sainte-Victoire (1011 m) を描いていたという高台につく。市内からはふだんこの名高い山を見ることはできないが、私はここからようやく眺めることができた。

エクスは現在はリゾートとなっていることは事実だが、歴史と文化を感じることのできる美しい町であり、多くの学生に混じって勉学に励むのに好適な環境を提供してくれている。

CIMG0445サント・ヴィクトワール山(望遠レンズによる撮影)

 

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2015年度ストラスブール研修応募書類一式

ストラスブール研修応募書類一式は以下の通りです。

募集要項  ・概要と費用について  ・申込書  ・家計基準申告について

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ストラスブール研修説明会資料

9月29日に行われたストラスブール研修説明会の資料は、国際開発研究科棟一階の学生交流課にあります。やむをえない理由で説明会に参加できず、欠席届を提出した学生は入手してください。

 

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9割はパッと見てわかるようにならなければ・・・(河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

毎週、日曜の午前はテレビで将棋の対局を観戦するのが習慣になっている。将棋そのものが好きというより、対局の様を見るのが好きなのだ。脇目も振らず、ひたすらひとつのことに集中している人間の姿は本当に美しい。そうした姿を眺めるたび、どうしたらこんな集中力を身につけられるのだろう、と思う。囲碁のことはよく知らないが、対局時の姿は将棋の棋士の方がずっと立派のように感じる。

ご贔屓は谷川元名人・現九段で、その所作はどなたかもおっしゃっていたが、能役者のように優美だ。解説者としては森下卓九段が、短いコメントで的確な情報を提供して下さり、有益だ。私は教室で学生に将棋を例にして、「打たれた手そのものは八段も二級も同じでも、その意味することは全く違うんだぞ。何かにトライしてうまくいかなかった時、相手や周りからから『惜しかったですね。もうちょっとでしたね』なんて言われて、それを真に受けているようじゃだめだぞ」と話すことがあるが、そうしたことを裏付けてくれるような、深く見事な解説だ。

先日、その森下九段にこんな文章があることを発見した。氏の師匠で「東海の鬼」と呼ばれた、故花村元司八段についての文章である。

花村先生は「直観」を重んじられた。局面をパッと見て、十のうち九まで最善手を指せるレベルになるまでは、考えても意味がないと言われた。一生懸命に指して番数を積み、直感で9割以上が正解を指せるレベルに達したら、そこで深く精読しなさいと教えてくださった。(『NHK将棋講座』2014年6月号から)

外国語の学習も全く同じことなのだろう。例えばこの従属節は直説法なのか接続法なのかとか、いちいち考えているようではだめなのだ。パッとわからなければならない。9 割直感でわかるようになって、それでもなお疑問に思うことを、さらに深く確認していくことが求められるのだろう。そんなレベルまで到底達していない自分は、エーとあれはどっちだったっけと、いちいち立ち止まって、辞書と相談しながら考えている。

リスニングだって同じことだろう。以前、ある先生からこんな話を伺ったこともある。

「聴くことを熱心に勉強する人間は少なくありませんが、ほとんどの人は聴き取れるようになったと思うと、そこでやめてしまいます。本当に大切なのはそこからで、聴き取れるようになったと思ったテープやCDをずっと流し続け、聴こうとしなくても耳に入ってくるようになるまで続けることが大事なんです」

もちろん自分はそんな段階まで続けたことはないし、行けるわけもない。

フランス語だって初心者に毛の生えた程度の私だが、最近、どういう風の吹き回しか、スペイン語を齧り出した。スタートはしたものの、動詞変化などのあまりに複雑さに、早くもリタイアしかかっている。スペイン語は本当にフランス語の変化が簡単に思えるくらいの難しさだ。

いつも学生には、「外国語の学習は文法を正確に学ぶ、単語の量を増やしていく、学んだことを日常生活や仕事の中で積極的に使っていくことに尽きる」などとエラソーなことを言っているが、自分の吐いた唾が天から返ってきているように感じている。

新聞などを一応読めるようになるのが先か、あきらめるのが先か、それとも命脈が尽きるのが先かわからないが、こんな文章を公にしたら、あと少しは頑張れるかもしれないと思って書いてしまった。

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国民戦線 (FN) 潜入ルポの波紋 (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

1990年代以降、国民戦線のフランスの政界における勢力拡大はまことに著しい。そこに至った原因のひとつは、彼等の巧みなメディア戦略によって、その主張が他の小政党とは比較にならないくらいマスメディアの中で取り上げられたことにある、という見方を前回紹介した。ただ、メディアへの露出が多かったとは言っても、それはジャン=マリー・ルペン党首という、いわばテレビ向きのパーソナリティによるところが大きかった。国民戦線という政党の内部はどうなっているのか、そこではどんな議論が交わされているのか、支持者たちはどのような人たちなのかといった問題は謎のままで、FNという政治勢力はフランスの政治と社会において、長い間、いわばブラックボックスだったのである。

そうした政党の内部に光をあてたのが、フリーのジャーナリスト、クレア・チェカリニ氏(Claire Checcaglini)の著わした『国民戦線へようこそ』(2012)* である。チェカリニは国民戦線の党首がジャン=マリー・ルペンから娘のマリーヌ・ルペンに交代する時期をとらえ、自らの身分を隠して国民戦線に入党した。そして入党後、そこで直接見聞きした幹部や同僚の言動を、この本にまとめた。
* Claire Checcaglini – Bienvenue au Front !, Jacob Duvernet, 2012. ISBN-10: 2847243844

党に加わるにあたって、彼女は祖母の姓と名前を借用した他、髪を染め直すなど、外見もそれまでとは大きく変えた。そして、入党にあたっての面接の際、なぜ党員になりたいのかと質問された彼女は、用意してきた次のような答を返したという。

「これまでも自分はFNに投票してきました。しかし正直言って、ジャン=・マリー・ルペンを支持することには抵抗がありました。しかしマリーヌが党首になった今、すべてが変わったと思います。自分はもっとこの党に関わっていきたいし、選挙戦にも参加していきたい」

*     *

入党後、35歳のチェカリニはパリ近郊のオ・ド・セーヌ県で活発な行動を開始した。それは、党の幹部から次の国民議会選挙に立候補しないかと誘われるほどの食い込みだった。

党に入った彼女はすぐに、マリーヌ・ルペン新党首の下で掲げられている dédiabolisation という戦略は、見せかけのものにすぎないことを理解した。dédiabolisation とは非悪魔化とも穏健化とも呼ばれることがあるが、要は社会から悪魔視される存在であったことから脱却し、FN Light と呼ばれる新しい性格を党内外に定着させることをねらいとしたものとされる。しかし、本当に「穏健化」は進んでいるのか。『国民戦線へようこそ』の中には、新党首が就任してまもないこの時期、党内で党員たちが交わしていた生々しいやりとりが記録されている。

例えば国民戦線の内部では、フランスとアラブの産油国との間で密約が結ばれている、と信じている人が少なくない、と彼女は言う。中東地域からおびただしい移民の流入してくるのは、産油国とフランスの間に、「産油国はフランスに石油を安く売る。その見返りとして我々の国の人間をヨーロッパに定住させる」という約束があるからだ、というのである。

1973年、フランスでは人工妊娠中絶が合法化された。このことに関連してFNの支持者たちは、「政府が移民の受け入れを認めているのは、中絶された人間の数を補うためだ」と信じているのだともいう。

また、著者が見た党の内部文書には、今後フランスがたどる道について、次のような選択肢が記されていた。第一の道は、フランスがイスラム法(Charia)を採用し、イスラム共和国になる道。そして第二の道は、国内で内戦が起きることを覚悟の上で、イスラム教徒を彼等の故国に送り返すという道である。この第二の道をとれば、フランスは内戦になるだろう。平和主義者や知識人、メディア、芸術家、宗教家たちはイスラム教徒を擁護するに違いない。しかし、イスラムの人々は元々の「真の」フランス人に比べ、人口増のピッチが速い。フランスを再生させ、イスラム共和国にしないためには、イスラムをこの国から根絶するほかない。自分たちにとっては戦うか消え去るしかないのだ・・・。

こうした言辞に接したチェカリニは、この政党と支持者には論理的は思考や分析といったものが欠けている、と断じるのである。

また、反ユダヤの立場に立つこの党の内部にはユダヤ人の家系の者も少なくない、という指摘も興味深い。彼等の先祖は第二次大戦中、強制収容所に移送された経験を持っているが、そうした過去にも関わらず、彼等は極右思想を信奉している。

彼女は、あるデモ参加者のこんな声も記録している。
「以前、十分はUMP(国民運動連合=現・共和党)に属していた。しかし、その支持者たちは他人を蔑み、冷たかった。しかし、この党は違っている。ここでは感じがいい人ばかりだ」

身分を隠しての取材という方法を取ったことについて、チェカリニ氏は次のように語っている。
「以前から、国民戦線の幹部がジャーナリストに対して発している言葉は、作りものにすぎないと感じていた。FNと取材者との間には、『自分はジャーナリストである』と明かした途端、間違いなく存在する壁があって、それを取り除かなければならないと考えていた。自分の身分を隠した取材であれば、FNでは誰が組織を動かしているのか、党内でどのようなメッセージが送られているのか、どんな表現が使われているのかといったことを知ることができると思ったのだ」

様々な現場に立ち会い、それを記録したチェカリニが、取材の最後に自分は偽装して潜入していたことを明らかにした時、党員たちの反応は意外とも思えるくらい冷静なものだったという。もちろん「卑劣だ」と怒りをあらわにする者もいたが、多くの党員はクールな反応を示した。「自分たちには隠すことは何もない。それなのにどうしてそのような方法を採ったのか、理解できない」と言う人さえいた。

*     *

チェカリニ氏の本の出版に対しては、当然国民戦線からの反発が起きた。党は、計略(ruse)によって取材を行ったとして、著者を詐欺罪で告訴したのである。

しかしオ・ド・セーヌ県の県庁所在地、ナンテールの裁判所は2014年の末、それに対し「免訴」、すなわち氏の行為は詐欺罪を構成しないとの判断を下した。その根拠は、「党は、著者が収集した意見や言葉の『所有者』ではなく、それらの意見は党の『財産』ではない」というものだった。要は、取材された意見は党員個人の発言であって、党という組織に属するものではないということである。さらに裁判所は、個々の意見はそれが捏造されたものでない限り、党に被害をもたらしたと判断することはできない、とも判示した。

また国民戦線側の、「潜入という方法によって得た情報によって、著者は本の出版を通して不正な利益を手にしている」という主張に対しても、「政党の思想、イデオロギー、戦略に関する公的な議論の展開に貢献することは、表現の自由に含まれる事柄である」と強調し、党側の主張を退けた。

この判決に対し、チェカリニ氏の弁護士は「すばらしい判決だ。国民戦線の主張を完全に論破するものだ。FNは民主的であるように装っているだけで、政党としての透明性を完全に拒否している」と述べている。一方、判決に対する国民戦線の側からの反発は、もちろん消えてはいない。

 

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研修(文化事情1の単位)

ストラスブール大学フランス語短期研修の応募資格として、「文化事情(フランス)1」の履修は必須ですが、1年生のときに単位取得した場合、それを2年生で応募資格として使うことができます。昨年度に「文化事情(フランス)1」の単位をとった今年の2年生は、この点についての応募資格を充たしています。

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研修説明会に欠席の場合

9月29日に予定されているフランス語研修説明会に、授業その他の特別な理由で出席できない学生は、事前に、授業担当教員の藤村逸子までご連絡ください。

fujimura@gsid.nagoya-u.ac.jp
@を半角に変えてください。

説明会は以下の通り開催されます。

日時:9月29日(火)5限
場所:全学教育棟Call1教室

断り無く欠席した場合、参加者の選考時に不利に働きます。

藤村逸子

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メディアが国民戦線を作ったのか(河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

少し前のことになるが、大学院の授業でちょっと面白い体験をした。日本国内で活発に活動を展開している、いわゆるヘイト・スピーチについて学生と教室で討論した時のことである。私からの問い掛けは次のようなものだった。「日本の放送メディアはヘイト・スピーチの活動を全くと言っていいくらい取り上げない。演説の肉声を画面の中で流すこともしない。放送局はどのような判断でそのようにしていると思うか。もし君がテレビ局の編集長だったら、どのような編集方針を採るだろうか」

それに対する学生の反応は、私にとって予想外のものだった。ほとんど全員が、次のような意見を述べたのである。「ヘイト・スピーチの活動も放送の中できちんと紹介すべきだ。いつも先生が『日本の放送の最も重要なポイントだ』と言っている放送法第4条は、『意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること』を、放送局に対して求めている」

それに対し私はこう反論した。「放送においては『何を放送するか』と同じくらい『何を放送しないか』という判断も重要だ。何でもかんでも電波に乗せてしまうのであれば、それではインターネットや2チャンネルと同じになってしまう」

その時、議論の中で私が他にも強調したのは、日本では視聴者の中には「電波に載っていることは、いわば世の中で公認されたことだ」と受け取る傾向があること、したがって過激な政治的主張を掲げる団体は、自分たちの活動が電波で紹介されることによって、社会的な認知を得ることを何よりも期待している、という点だった。

放送法はその第1条で、「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」と放送の担うべき役割を明記している。そうした法の精神から言っても、社会に暮らす人々を傷つける言説を放送の中で取り上げることについて、放送局は慎重でなければならないと説明したのだが、それに対して受講生からは異論が出された。

「視聴者はそれほど愚かではないのではないか。もちろんヘイト・スピーチの主張を紹介する場合は、それに反対する立場の考えと組み合わせたかたちで放送することが望ましいだろうが、過激な言説を行うグループの活動や主張を、世の中に全く存在してないかのように扱うのはおかしい」

議論の最後には学生から、「先生の考えはくさいものにフタをしようとする、企業防衛的発想だ」という意見まで飛び出して、驚かされた。私にとっては意外な議論の展開となったが、学生とのやりとりは私にとって、若い世代の放送観は自分たち世代のそれとは全く様変わりしていることを確認させる機会ともなった。

*     *

そんなディスカッションを交わしてから暫くして、私はフランスの極右・国民戦線(FN)に関する何冊かの本に目を通す機会があった。国民戦線は1972年の結党以来、何回もの分裂や内紛を繰り返しながらも勢力を伸張させ、現在、地域によってはフランス国内の有権者の30パーセント以上の支持を集めている。

その主張は移民排斥、国籍取得制限の強化、フランスのEU(欧州連合)からの脱退、通貨ユーロからフランへの回帰、治安の強化、妊娠中絶の禁止といったもので、そうした提言は失業や経済の世界化(mondialisation)に脅かされている人たちを中心に、広汎な支持を集めている。2年後、2017年に予定されている大統領選挙において、国民戦線が文字通り台風の目となることは間違いない。

その国民戦線が1990年代から、どうして急速に勢力を拡大できたのか、その問題を正面から論じたのが、弁護士で地方議員としての経験も持つ、フランソワ・ジェルべという人物の著わした『メディアがルペンを作った』である。

この本は、1970年代にはほとんど無名の存在だった国民戦線が80年代半ばから飛躍的に勢力を拡大したのは、党首ジャン=マリー・ルペンの巧みなメディア戦略があったからだ、と主張する。ジェルべによれば、ルペンは新聞や放送のインタビューに登場する機会をとらえ、意識的に過激な発言を行ったというのである。

ルペンはインタビューやメディアがいる公開の場で、「政府や自治体は、移民の増加、失業による社会不安、治安の悪化といった事態に何ら有効な対策を取っておらず、そのことはフランス人からフランス人としてのアイデンティティを奪っている」と繰り返し訴えた。彼はまた、ナチスによるユダヤ人の虐殺を「第二次世界大戦の中の些事」と呼ぶなど、しばしば舌禍事件を起こしたが、結果的にそれらが国民戦線のPRにつながった面も否定できなかった。ルペンの移民や弱者を傷つける発言は社会の反発を招いたが、そのことがメディアでまた大きく報じられ、さらにそれに対するルペンの再反論がメディアに掲載される・・・といった循環が繰り返されたのである。

彼の「100万人の移民がフランス人100万人の雇用を奪っている」という発言はよく知られているが、そうした単純化された主張が多くのインタビューを通して、フランス人の頭の中に刷り込まれていった、とジェルべは言う。

もちろん新聞社や放送局の中には、「ルペンの発言を新聞やテレビで積極的に紹介すれば、国民戦線の思う壺だ」と考えるジャーナリストも少なくなかった。しかし一方で、選挙で一定の支持を得ている政党幹部の考えを取り上げるのはメディアの役割だ、という姿勢の記者やプロデューサーもいたし、国民戦線幹部の過激な発言を引き出して、それをスクープというかたちで報じよう考える記者もいた。

国民戦線の活動を記事や番組で取り上げたり、党首ルペンを出演させたりすることは、果たして妥当なのか、メディアはどういう態度を取るべきだったのかという問題について、二人の対照的な考えを紹介してみよう。

1980年代以降、多くのテレビ・ラジオ番組でキャスターを務めた花形ジャーナリスト、クリスチーヌ・オクランは次のように言う。彼女は1996年9月、民放のラジオ番組「ディマンシュ・ソワール」でルペンにインタビューを行った。ルペンをメディアに登場させたことに対して加えられた批判に対し、彼女は次のように反論した。

「ジャーナリストとして、国民戦線の指導者に直接質問しなければならないことは明らかだ。ルペンが法を逸脱した存在であるかどうかを判断するのは、議会や憲法院(憲法評議会)であって、ジャーナリストではない。自分の目に目隠しをして、質問をしないというのは楽なことだが、それは勇気を欠いた行為だ。それでは危険が迫ったら、それに正面から立ち向かうことをせず、砂に頭を突っ込むというダチョウになってしまう。
もちろん、ルペンを出演させることにはためらいもあったし、意気揚々とインタビューしたという訳ではない。しかし、インタビューをすることが我々ジャーナリストの仕事なのだ。私自身は、ルペンと相い対することによって、その本質の一部を明らかにすることに貢献できた、と自負している」

一方、『メディアがルペンを作った』の著者フランソワ・ジェルべは次のように言う。

「つまらない政治家のどうでもいい発言まで、すべてを伝える使命が、ジャーナリストには課されているのだろうか。ジャーナリスト自身が、『こんな発言をする人物は政治の世界から追放された方がいい』と考えるような政治家の発言まで、ジャーナリストはいちいち報道する義務があるのだろうか。新聞や放送がルペンのたわ言を伝えなかったからと言って、そのことを不満に思う人はいない。しかし、メディアはルペンの片言絶句まで伝え続けている。私がジャーナリストに望むことは、市民的な対応をしてほしいということだ。それは国民戦線を黙殺する、ということだ」

*     *

ここで興味深いのは、ルペンがテレビに初めて登場するようになったきっかけである。そこにはミッテラン大統領の存在が影響していた、とジェルべは言う。

1982年5月、当時の社会党大統領、ミッテランはオルレアン市で演説を行った。その中で彼は、国民の間に存在すべき一体感とは、全員が同じ考えを持つということではなく、様々な意見が多元的に存在することであり、異なった意見の間のぶつかり合いこそ国民の間の一体感を生むのだ、という自説を展開した。

ミッテランのこの演説を聞いたルペンは、直ちに大統領に書簡を送った。その中でルペンは、国民戦線が国民の間で一定の支持を得ながらも、政治や選挙の報道においてメディアから不当な扱いを受けていると訴えた。それに対するミッテランの反応は予想外のものだった。彼はルペンに返信を送り、国民戦線がメディア各社から受けている扱いを不当なものと断じ、通信担当の大臣に状況の改善を指示することを約束した。そして、大統領が発した指示の内容をAFP通信は、直ちに配信した。

影響は直ちに現れた。メディア各社は大統領の意を受けるかたちで、政治番組や選挙関連番組において、国民戦線の取材を積極的に行ったり、ルペン党首をインタビューしたり、討論番組への出席を求めたりするようになったのである。

ミッテランがなぜルペンに好意的な動きに出たか、その理由は細部まではわかっていない。ただミッテランには、国民戦線の支持が拡大すれば、政治の世界において、既存の右派政党の力が削がれる、という計算があったことは確かである。フランスの政治は大きく言って、オール右派対オール左派の対立という括りの中で動いていく。ミッテラン大統領には、国民戦線の勢力が伸びれば、右派の中で当時の共和国連合(RPR)などの勢力が食われるに違いない、という読みがあった。しかし、それはパンドラの箱を開くようなものだった。メディアへの露出をバネに国民戦線は、既成政党や「右対左」といった図式に厭きた人々の間に一気に支持を拡大していったのである。

 

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2016年春研修

2016年春の2015年フランス語研修ポスターができました。説明会は9月29日(火)5限、全学教育棟Call1教室にて行います。興味のある学生は必ず参加してください。説明会への参加は参加者の選考のための基準の一つになります。(やむを得ない理由(必修授業など)がある場合には、文化事情(フランス)Ⅱの担当教員の藤村逸子までご連絡ください。)

情報が更新され次第、当HPに順次掲載します。

昨年度の概要参加者の成果も併せてご覧ください。

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