川島慶子:”genre”が市民権を得た日

川島慶子(科学史、名古屋工業大学准教授)(元の記事はこちら

2013年の夏にフランスの本屋から Emilie Du Châtelet et Marie-Anne Lavoisier : science et genre au XVIIIe siècle (Honoré Champion, Paris) という本を出した。これは原題を『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ、18世紀フランスのジェンダーと科学』といい、東大出版会から2010年に出した拙書の仏訳である。さて、ここで「ジェンダー」という言葉がどう訳されているかというと、genre (ジャンル) で、要するに英語の gender をそのままフランス語にしただけである。これを読んでいる人の大部分は、だからなんだというところだろう。しかし、30年ばかりフランスの研究をしている私としては、この訳語には特別の感情を持ってしまうのである。

もともと言語上の性を意味するジェンダーという言葉を、生物学的性差とは違う社会的・文化的性差を意味する言葉として最初に使用したのは、英語圏の研究者である。日本ではそれをそのまま「ジェンダー」と記し、適宜説明をつけてきた。しかしフランス語圏、特にフランス本国では、フェミニストたちですら、長いことこの用語を使わずに論文を書いてきたのである。

したがって、フランス語で書く場合、私は genre が使えなかった。「sexe でいいでしょう」「inégalité des sexes とかすれば」などなど、フランス人から忠告を受けつつ、なんとか自分の主張をフランス語にしてきたのである。正直不便だった。「フランス語が英語に侵食される」というところに、プライドの高いフランス人としては抵抗があるのだろうなあ、とか考えたりして妥協点を探ってきた。

ところが、いつの頃からか、フランスの本屋に「Genre」というコーナーができるようになった。もちろん「ジェンダー本」のコーナーである。いったん使い始めたら、さしものフランス人もその便利さに味をしめたに違いない。かくして私の本のタイトルも、そのまま genre として世に出ることになった。この本にはフランスを代表するフェミニスト哲学者、Élisabeth Badinter が序文を寄せてくれ、彼女は私の研究がアメリカのジェンダー研究と関係していることを明言している。

味をしめると言えば、メールの普及もフランス語のスタイルを変えはじめている。アメリカのスタイルが明らかにフランス語の書き言葉の中に侵入している。それも「言葉の侵入」という形ではなく、「フランス語の簡素化」という形で影響されている。我々外国人にはありがたい。わかりやすく、簡単で短い文章が増えている。フランス人にとってもラクだろう。

けれど私は、この事態に少しばかり複雑な気分になってしまう。それは、今までのフランス語での苦労は何だったのか、という怒りではない。この気持ちは、日本の地方都市がみんな同じようになってきたことにがっかりする気持ちとどこか似ている。

どこに行っても同じというのは、確かにとてもラクなのだけれど、変化がなくなると面白味もなくなる。「ジェンダーなんてアメリカ的な表現は使わない」「フランスの書き言葉は、断固フランス的であるべき」という意見に全面賛成ではない。けれど、みんなおんなじではつまらない。こうしたバランスはとても難しい。かくして私は、自分の本に genre という言葉が堂々と印刷されているを見て、うれしいのか残念なのかよくわからない今日この頃なのである。

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