河村雅隆: 足の裏の米粒

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

何事もそうだが、継続ほど大事なものはない。特に語学の勉強はそうだろう。外国語の勉強はザルに水を注いだり、下りのエスカレーターを登ったりするようなものだとつくづく思う。私は山が好きで良い季節に何日か山中を縦走したりすることがあるが、下りてくると、ほんの数日日常から離れていただけなのに、元々なかった外国語の力がさらに落ちていることを実感する。物事を良くしていくには無限の努力が必要だが、悪くするのは一発だということなのだろう。

昔、ある大先生が「勉強なんて、足の裏にくっついた米粒を取るようなもんだよ」と言うのを聞いたことがある。何のことだろうと思って耳をそばだてていたら、「取ったって食えないけれど、取らなきゃ気持が悪いじゃないか」。もちろん偽悪的な冗談だったろうが。

大先生に比較するのはおこがましいが、その気持は多少わかるような気がする。私は勤勉な勉強家ではないが、それでも新聞や雑誌を読んでいて知らない単語に出会うと(というか、いつまでたっても分からない言葉のオンパレードだが)、それを紙の切れっぱしに書き出して、喫茶店や電車の中で眺めたりする。こんな単語を記憶したところで、残りの人生でもう二度と出会うこともあるまいと思うが、そのままにしておくといつまでも米粒がくっついたままになっているような気がするのだ。

ラジオのフランス語講座に耳を傾けることも随分続けてきた。いくらやったところでリスニングは一向に良くならないが、これも下りのエスカレーターを登ろうというようなことなのだろう。ニューヨークで仕事をしていた時も、日本からCDを送ってもらって聴いていた。

アメリカでフランス語が多少でもしゃべれてよかったのは、いつも行った食料品店の若い店員が西アフリカのブルキナファソの出身だったことだ。彼は私のフランス語をいたく喜んで、果物などをいつも多くおまけしてくれた。

最初にフランス語講座に接したのは1970年代冒頭、テレビの方の番組で、今でも覚えているが、講師は基礎編が丸山圭三郎先生、応用編が渡辺守章先生という超重量級。しかもスキットの演出と出演はニコラ・バタイユという豪華版だった。

その語学講座も随分変わった。テレビもラジオも外国語を勉強するための教育番組というより、「知らない言語に興味を持ってもらうためのきっかけ作り」というふうに、番組のねらいが変化してきたようだ。放送という「商売」はとにかくチャンネルを合わせてもらわなければならければ話にならないから仕方がないが、タレントを無暗に起用したり、最初からあまりくだけた表現ばかりを取り上げたりするのはどうかと思う。いつでもどこでも使えるオーセンティックな表現をまずは身につけさせるべきだと思う。

根っ子を深く張らなければ木は大きく育たない。単語の数を増やす、正確な文法を身につける、勉強した成果をどんどん実際に使って見るというのは、どんな時代でも変わらない語学学習の王道だと思うが、最近ではそんなことを言っても多勢に無勢のようだ。

今大学の中では、英語以外の外国語を学生にどのように教えていくかという議論が盛んに行われている。私の経験から言えるのは、若いうちに色々な言葉を齧っておくというのは本当に大事だということだ。人間、年を取ったら厭でも応でも間口が狭くなっていくのだから、若いうちにとにかく可能性を広げておくということが大事だろう。間口を狭めることなんていつだってできる。

担当している一般教養科目の授業の中でいつもそんなことを言うのだが、もちろん反応はない。若い人たちの外国語に対する苦手意識、というか嫌悪感が年々強くなっているようで気懸りだ。

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