河村雅隆: シェンゲン協定の見直し

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

 前回この欄で、アフリカなどから押し寄せている「難民」が、ヨーロッパの国々にとっていかに重大な問題となっているかを見た。それらの人々の多くは、経済的な困窮などの事情から、入管当局の目を逃れるかたちで南欧の国々に入ってきた人たちである。今回は彼等とは違い、いわば合法的にヨーロッパの国々に入国したものの、その後、不法なかたちで欧州域内に留まることになった人々のことについて触れてみたい。

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 海路やってくる難民の問題とあわせ、最近ヨーロッパで大きく報じられたのは、シェンゲン協定という、出入国に関する審査を免除した取り決めについての議論である。この協定は1985年に締結・成立したもので、内容を一言で言ってしまえば、協定参加国の間で人間の移動に関するチェック、すなわち「パスポート・コントロール」をすべて廃止するというものだった。協定に加盟している国の国民が他の協定加盟国に移動しようとする場合、その人は入国に際して一切の審査手続きを免除されたのである。

それだけではない。協定に加わっていない第三国の人間が、協定加盟国において初めてヨーロッパに入ったとしよう。その人は次に他の協定加盟国に移動しようとする場合、いちいち各国の入国審査を受ける必要はなくなり、自由に移動することができるようになった。

日本人もこの協定の適用を受けており、シェンゲン協定の加盟国にひとたび入国すれば、他の加盟国のどこにでも自由に移動できるし、シェンゲン圏と呼ばれる領域内ならどこでも原則、最大限90日間滞在することができるようになった。ところが最近、この取り決めが小アジア、中東、アフリカなどからの移民流入を受けて、一部見直されはじめたのである。

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 振り返ってみれば、1980年代とはヨーロッパにおいて統合の機運が大いに高まった時代だった。その時期、欧州では人、モノ、金のEC(当時)域内における自由な流通が推進され、シェンゲン協定もそうした流れの中で誕生したものだった。シェンゲンとはルクセンブルクにある小さな村の名前で、西ドイツ(当時)、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク5が国の首脳は、この村を流れる川に浮かべた船の上で歴史的な協定に調印したのである。

 今、80年代とは統合の動きが急速に進んだ時代だったと書いたが、その時期までにはEC(当時)各国の、西ヨーロッパ市民に対する旅券の審査は、既にかなり形式的なものになっていた。フランス・ベルギー国境などの場合、人々はちらっとパスポートを見せるだけで、ほとんどノーチェックで出入国することが出来た。しかしそれは、あくまで運用面において審査が簡素化されていたということでしかなかった。シェンゲン協定は、主権国家が人間の出入りという、国家にとって最も重要な業務を正式に放棄したという意味において、画期的なものだったのである。

その後、この協定に加入する国は数を増し、現在では26もの国がシェンゲン協定に加わっている。ヨーロッパで加入していない国と言えば、イギリスとアイルランドくらいで、注目すべきは、ECの後身であるEUに加盟していないノルウェー、アイスランド、スイスもシェンゲン協定には加わっているという点である。このようにシェンゲン圏とEU圏との関係は非常に複雑なものになっている。

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 今回、シェンゲン協定が見直された最大の理由は、深刻化する移民の流入問題である。域外からやってきた人間は、いったんシェンゲン圏内に入ってしまえば、圏内を自由に移動することが出来る。逆に加盟国にとっては、人々の移動をコントロールしたり自国への入国を拒否したりすることが非常に困難になってきている。昨今のヨーロッパでは、「協定は、各国が有効な移民対策を取るための障害になっている。シェンゲン圏内に入ってしまった途端、姿をくらましてしまい、その後ヨーロッパに不法滞在する人間はあとを絶たないではないか」という批判が力を得てきたのである。

 2013年8月EUの執行機関である欧州委員会は、シェンゲン協定の加盟国の出入国管理に関して、次のような見直し案を採択した。

 まず、加盟国が国境における出入国審査を暫定的に復活させることを認めた上で、もしそれを復活させる場合には、復活のため手順を明確に示すことを求めた。さらに、国境における監視体制を改善できない加盟国に対しては、協定加盟国としての資格を一時停止する可能性があることも示唆したのである。この時、加盟国の間では、加盟国としての資格が停止される可能性のある国とはギリシャのことであると解されていた。現在、西ヨーロッパにはトルコからギリシャ経由で流入してくる人たちが少なくないが、EUはその流れの源を絞ることで、移民の流入をコントロールしようと考えたのである。

シェンゲン協定の見直しを先取りするかたちで、ヨーロッパのあちこちで一部の加盟国が国境における出入国管理を復活させている。フランスは、北アフリカからの難民が自国内に入ってくるのを抑えるために、フランスとイタリアを結ぶ鉄道の運行を一時的に停止する措置を取ったこともある。デンマークでは入管ではないが、税関職員の数が増強された。

 ヨーロッパの統合は、決して一直線で進んできたものではない。一歩進んだかと思うと二歩下がるということを、これまで延々と繰り返してきた。最近では難民や不法移民の大量流入という事態を受けて、これまでの統合の動きを見直そうという動きも目立ってきている。こうした動きがこれまで積み上げてきた統合の動きを本当に後退させてしまうのか、それとも一時的な後退にすぎないのか。ヨーロッパのメディアの伝えるニュースに注目していきたいと思う。

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