政治的レトリックということ (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

アメリカとの国交回復を受けて、フランスを含め欧米のメディアはこのところキューバに関するニュースを多く伝えている。キューバの問題について私は以前から関心を抱き続けてきた。それは1962年のキューバ危機が、私の中に強烈な記憶として残っているからかもしれない。そして、崇高な理想を掲げて誕生した国家が、歳月を経るにしたがってどのように変貌していくのかという点にも大きな興味があった。

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1980年代半ばのことである。当時東西冷戦という大状況はまだ続いていたが、東側の盟主・ソ連の経済の行き詰まりは誰の目にも明らかになりつつあった。アメリカからの経済制裁を受け続けていたキューバは、それまでソ連からの援助によってかろうじて経済を維持していたが、頼りとするモスクワからの支援はもはや消滅寸前の状態に立ち至っていた。

そうした状況の下、キューバからは小さなボートやいかだに命を託して、対岸のフロリダをめざして出て行く人たちが跡を絶たなかった。故国に見切りをつけて、アメリカでの暮らしにわずかな可能性を見出そうという人たちであった。皮肉なことに、アメリカはキューバに対して禁輸など強硬な態度を取れば取るほど、自国の中に新住民を迎え入れなければならないというジレンマに直面することになった。

そもそもキューバ政府は自国民が流出していく動きに対して、それを事実上容認する姿勢を取り続けていた。80年代後半から90年代前半のキューバの態度を一言で言えば「出て行きたい人間は勝手に出て行け」というもので、密出国に対して厳格な取り締まりは行われなかったという。

その頃、放送局で主に国際関係の番組を担当していた私はある時、外電の中に次のようなキューバ高官の発言を見つけ、我が目を疑ったことがある。それは「アメリカがキューバに対して禁輸解除などの措置を取らなければ、キューバはアメリカに対してこれまで果たしてきた『難民流出に対する防波堤』としての役割を放棄する」という趣旨の発言だった。高官のこの言葉はどのようなことを意味していたのだろうか。それは「自分たちがキューバの島に社会主義政権を維持していることによって、難民の数は一定以下に抑えられているのだ。もしキューバ人の流出がどんどん続いたら、彼等が行きつく先は対岸のフロリダなのだから、困るのはアメリカの方なのだぞ。だから難民の発生する原因となっている禁輸を、アメリカは早く中止しなさい」ということだったのだ。

キューバ政府が難民の流出を抑えない方針を取った理由のひとつは、自国の体制に不満を持つ人間が国外に出て行ってくれる方が政府にとっては都合が良いと考えられたからである。別の言い方をするなら、難民の流出という事態は自分たちの体制を維持していくための安全弁だと考えられたのである。それだけではない。既に述べたように、キューバ政府は密出国していく難民という存在を、「流れつかれる側」であるアメリカへの圧力として最大限利用しようとしたのである。

さらには80年代、キューバは犯罪常習者など、自分たちの体制にとって好ましくないと考えられた人たちを、ボートやいかだに載せて送り出していたという。つまり「革命の敵」が外国に対する有利な道具として使われたということになる。

キューバのこうした方針は「移民政策」と呼ばれることもあったが、実態は「棄民政策」と呼ぶべきものだった。しかし、流出していってくれる人間が国内に無限にいる訳はないし、国民がどんどん外へ出て行ってしまったら、国内のエネルギーが低下してくることは明らかである。自国民を国内から放り出すことによって成り立っている国家などというものが、いつまでも存続できるはずがない。にもかかわらずキューバの高官は、難民という存在を外交の有力なカードとして使おうと考えたのである。これが政治的思考、政治的レトリックというものなのだろう。

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政治的レトリックに関しては、昔、アメリカの外交官から聞いたこんな話も紹介しておきたいと思う。「実話だ」と断った上で彼が話してくれたのはこんな逸話だった。

冷戦で米ソが厳しく対立していた時代のモスクワを、アメリカの代表団が訪ねた時のことである。今も昔もロシアには酔っ払いが多い。乞食も少なくはない。代表団がソ連ご自慢のモスクワの地下鉄を視察した時、一行の前で白昼、物乞いらしい酔っ払った男が寝そべっていた。それまでさんざん社会主義経済の成功を聞かされていたことへの反発もあったのだろう。アメリカ側のひとりが案内役のソ連の人間に、「モスクワにも乞食がいますね」と一言皮肉っぽく言った。

それに対して、ソ連の当局者は直ちにこう言って反論してきたのだという。「そうかもしれません。しかしあなた方はアメリカの南部で黒人に対して、どういうことをしているんですか?」

モスクワの地下鉄の乞食の話題とアメリカ南部の黒人に対する差別や迫害とは、全く関係のない話である。「しかし、そんなふうに全く関係ないことを平気で結びつけて反論できるのが政治的レトリックというものだ」とそのベテラン外交官は笑いながら話してくれた。

日本人は、少なくとも私の年代の人間くらいまでは、「言葉には自分の信じている思いを込めて話しなさい」とか「巧言令色すくなし仁」とか言われて育ったものである。もちろんそれは正しい道徳だと思うけれど、世界の中ではそういった価値観だけでは太刀打ちできない世界の方がずっと多いのではないかと思う。

 

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現代のジャン・バルジャン? (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

最近一年の間だけで、ヨーロッパには東欧、アフリカ、中東などから百万人を超える人々が難民や移民として押し寄せてきた。その事態に苦慮する欧州各国、特に地中海に正面から向き合う南ヨーロッパの国々の悩みは深刻さを増す一方である。

そんな中、今年、イタリアの裁判所はひとりの移民の起こした犯罪について、注目すべき判決を下した。ヨーロッパの放送や新聞はこの出来事を大きく報じていたが、日本のメディアでの扱いはきわめて小さなものだった。そのことは難民問題に関するヨーロッパとそれ以外の世界、特に日本との温度差を象徴的に示すものかも知れなかった。まず、それがどのような出来事だったかということから話を始めることにしたい。

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2016年5月、イタリアの最高裁判所は「餓えに耐えかねて食べ物を盗んだことは犯罪にあたらない」として、スーパーで食品を万引きしたとして窃盗の罪に問われていたホームレスの男性に対し、無罪の判決を下した。

被告の男性はウクライナ出身の30代の男性で、5年前の2011年、ジェノヴァ市にあるスーパーで4ユーロのソーセージとチーズを盗んだとして起訴されていたものである。一審の裁判所は被告に対し窃盗罪で有罪の判決を下し、控訴審もそれを支持していた。しかし最高裁判所は被告の行為は生存のための必要性に駆られた行為で、「緊急避難」にあたると判断し、無罪の判決を下した。

緊急避難とは専門家によれば、「自己または他人の生命・自由・財産などに対する目の前に迫る危険を避けるために止むを得ず取る行為で、それによって生ずる害が、避けようとした害の程度を超えない場合のみ認められる」とされる。この被告の場合、スーパーから盗んだ品物の金額が限られていたこと、被告の生活状況がきわめて切迫していたことなどから、裁判所は被告の行為は緊急避難にあたる、と判断したのである。つまり、「人間は生きるためには食べなければならない。飢えをしのぐためにとった盗みという行為は犯罪にあたらない」としたのである。

この判決に対しては当然のことながら賛否両方の意見が噴出した。肯定的な意見は『レ・ミゼラブル』を引いて、生きるためにわずかのパンを盗んだだけで投獄され、その後の人生を捻じ曲げられたジャン・バルジャンのような人間を社会は作り出してはならない、と訴えた。

一方、批判的な意見の代表的なものは、「移民や難民の生きていく権利も結構だが、商売をやっている人間の財産権の方はどうなるのか」というものだった。また、「被告のような立場の人間は世の中に山ほどいる。一体どのような状況にあれば、緊急避難という行為が認められるのか。その基準がきわめて曖昧だ。被害金額が少額だったことが判決に影響を与えたのだろうが、どれだけの被害だったら緊急避難と認められ、どれだけだったら認められないのか不明だ」という意見もあった。

さらに、「盗みという手段を取る以外に生命を維持していく方法はなかったというが、本当に『やむを得ずした行為』だったのか、検証が不十分ではないか」とか、「難民の置かれている状況には同情を禁じ得ないが、イタリアは難民たちすべての不幸を引き受ける訳にはいかない。今回の判決をきっかけに同様の事件が頻発したらどうするのか」との批判もあった。

先日、私は教室でこの事件を取り上げ、学生たちの考えを聞いてみたが、彼等の反応は賛否あわせてメディアが伝えたイタリア社会の意見とほぼ同じだった。

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今回のイタリアの判決を皆さんはどのようにお考えになるだろうか。「盗むな、殺すな、姦淫するな」などの掟は世界中、特にキリスト教世界にとっては言うまでもない約束事だった。しかし今やその根本的なルールが揺らいでいる。移民や難民の問題がヨーロッパにもたらしている衝撃の大きさを、あらためて感じさせられた思いがする。そして今回提起された問題は、いつ日本で起こっても不思議ではない。それはまさに、今から日本が考えておくべき課題でもある。

(参考)
ユーロニュースHP 2016/5/4
http://fr.euronews.com/2016/05/04/italie-voler-quand-on-est-pauvre-et-affame-n-est-pas-un-crime

New York Times 週間版 2016/5/15

 

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『フランコフォン集合せよ!』 (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

外国にいた時、バスなどを使って、何日間か同じグループで移動してまわるツアーに参加したことがある。「そういうツアーはお仕着せで面白くない」と言う人も多いだろうが、パックのツアーはmustの名所の見落としがなく、私は嫌いではなかった。最初グループで訪ねて気に入った場所を、後で今度は個人で再訪したこともある。また、外国発の団体旅行ではいろんな国から来た、様々な言語の人たちと語り合う時間を持てたことも楽しい思い出である。

そうしたツアーでは参加者は同一の空間を長時間共有することになるのだから、当然そこにはコミュニティみたいなものが次第に形成されてくる。そして集団の中に何となくグループの中心というか、リーダーみたいな人間が現われてくる。私の限られた経験ではそういう人物は英国人であることが多かった。しかもやや高齢の、リタイアしたような人。職業で言うと、教師のOBなどが典型だったろうか。

英国人がグループの中心を形成しやすいのは、何と言っても彼等は英語という武器を手にしているからだろう。そうしたツアーに参加しようという人たちの中に、「英語は全くだめ」という人は少ないだろうから、「グループ内の共通言語が母国語」という状況は、英国人に最初からきわめて有利な条件を与えていることになる。パックツアーの場合、ほとんどの行程は事前に決められているが、それでも食事やアディッショナルな見学などに関し、選択が求められることもある。そうした際、英国人はグループの中で最初から有利な立場に立っていることになる。私はもちろん常にleadershipではなく followshipに徹していた。

ただ見ていると、英国人は英語という「資源」を持っているだけでなく、何となく集団をソフトに動かしていく力を持っているように感じることもあった。イギリス人は人間と人間の距離の取り方が巧みだ、と感じさせられることもあった。パックツアーにはアメリカ人の参加ももちろん多いが、彼等が集団の中心の座を占めるということは、あまりなかったような気がする。

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そうやって何日かのうちに英国人を中心とする構図が出来てくると、それに不満の気分を示す人間も出てくる。多くの場合、それはフランス人たちなどである。国際会議などでもよく経験したことだが、昼食の時間などになると、フランス人の周囲にスペイン人、ポルトガル人、ギリシャ人などが集まって、フランス語で談笑する光景が見られるようになる。スペイン人たちは同じラテン系、地中海系ということで、フランスに親しみを感じるのだろうか。歴史的に見れば、スペインやポルトガルはナポレオン軍に痛めつけられた過去を持っているのだから、フランスに対する感情はどんなものなのだろうなどと思うのだが、そんな出来事は遠い昔のことなのかもしれない。

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フランス語を理解する人間が集団を作るという光景は、国際会議やシンポジウムなどでも見かけた。「フランス人ほど世界中からフランス語を話す人間を探し出すことに熱心な人間はいない」とはよく言われることだが、放送番組の見本市などでは「フランコフォンの集い」というカクテル・パーティーが開かれていた。そこに、フランス人を中心に西アフリカなど旧フランス植民地から来た人たちが大集合するのである。

私はフランコフォンではないが、面白そうなのでそうした会を何度か覗いてみたことがある。美味しそうなワインとおつまみも魅力だった。もちろん主催者が「あなたはフランコフォンではありませんからお引き取り下さい」などと言うはずはない。そういうレセプションを主催するのは実質的にフランス人で、彼等は英語が幅を利かすイベントの中で、思う存分フランス語を喋る時間を持つことができて、いたくご満悦の様子だった。

しかし、「フランコフォンの集い」が終わってしまえば、イベントはまた英語が中心となって進行していき、フランコフォンは多勢に無勢といった感じだった。集まりの主催者に聞くと、最近では西アフリカやインドシナなどの旧植民地からフランコフォンの集まりに参加する若い人たちが減ってきているという話で、「なんとも嘆かわしい」という表情が印象的だった。

世の中、色々な要素がなければつまらない。「英語帝国主義」とまでは思わないが、英語だけが共通言語という世界はつまらないし、世界のためにも良くないだろう。世界中の人々が英語だけでなくいろんな言葉を齧ったら、個人も社会ももっと面白くなるのに、と思う。

 

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河村先生新著書評 (『GALAC』)

 

放送関係の雑誌『GALAC』 2016年9月号に、河村雅隆先生の新著『端倪すべからざる国』の書評が掲載されました。著作権者の許諾を得て本HPにも掲載します。もう一度ここをクリックして紙面のイメージでお読み下さい。

 

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2016年度文化事情(フランス)ポスター

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2016年度ストラスブール語学研修チラシ

2016年度研修チラシ

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新聞に対する公的支援という問題 (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

少し前のことになるが、2009年、当時の仏大統領、サルコジ氏が打ち出した新聞支援策が、フランスだけでなく世界中のメディア界の話題をさらったことがある。それは18歳のフランス国民に希望する日刊紙(全国紙)1紙を選ばせた上で、1年間無料で配布するという大胆なプランだった。つまり、公費(税金)で新聞を配ろうというのである。その狙いは若者の新聞離れを食い止めようというものだった。同時にサルコジ氏は、報道機関がデジタル化に対応するための設備投資についても支援を行う意向を表明した。

フランスでも日本と同じく、インターネットの普及などによって若年層を中心に新聞離れが進行している。発行部数の減少は広告主の新聞離れを招き、部数だけでなく広告収入も減るという悪循環が続いている。サルコジ氏の案は若者に新聞に親しんでもらい、新聞業界を活性化させようというもので、向こう3年間この計画を続けることが発表された。必ずしもメディアとの関係は良好ではなかったサルコジ氏だが、氏は記者会見で「新聞を読む習慣は必要である」と力説していた。

サルコジ大統領のプランには世界中のメディア関係者が驚愕したのだが、実はフランスではサルコジ氏の就任以前の2006年から似たような新聞支援策が行われていた。政府と費用を折半するかたちで、41の地方紙が18歳から24歳の若者を対象に、週に一度、新聞の無料配布を行っていたのである。その効果は大きく、地方紙で構成する団体によれば、1年間の無料配布期間が終了した後も、15パーセントの読者が有料で購読を継続したのだという。

その後、サルコジ氏は2012年5月の大統領選挙で敗北し、それに伴って2012年9月には日刊紙(全国紙)の無料配布事業は廃止された。ちなみにフランスでは企業でも政治でも、責任者が交代した場合、後任者が前任者の方針をひっくり返すというのはごく当たり前に見られる現象である。

2009年、サルコジ氏の新聞支援策が発表された時、私はアメリカにいた。知り合いの新聞記者と話していて、この案が話題になったことがあるが、彼は「政府に助けてもらうくらいなら潰れた方がマシだ」と息巻いていた。フランスでも日本でも同様の反発は多かったろう。フランスでは編集権の独立を危惧するジャーナリストだけでなく、新聞を配布する財源を負担することになる一般の読者や市民(納税者)からの反発も強かったという。

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しかし実は新聞に対する公的な助成や支援を求める動きは、我々の気がつかないところで、例えばアメリカでも始まっている。

アメリカの新聞の状況はヨーロッパ以上に深刻だろう。近年、小さな町や地域にあった新聞が廃刊されたり、電子版だけの発行に切り替わったりすることは日常茶飯事である。「アメリカの民主主義は地域の新聞によって支えられてきた」とはよく言われることだが、今や地方都市の中で地元の新聞を持たないところも珍しくなくなった。

そうした状況の下、アメリカでは何とか新聞を存続させようという運動が展開されている。この運動の根底にあるのは、新聞はPublic Goods(公共財)だという認識である。「アメリカ人の40パーセントはブロードバンドにアクセスできる環境にはいない。だから新聞がなくなれば情報ディバイド(情報格差)の問題がヨリ深刻になる」と彼等は主張する。

また彼等は、近年勢いを増しているオンライン・ジャーナリズムについても、それらのWEBジャーナリズムはどこからネタを得ているのか、と疑問を提起している。「ニュースのWEBサイトの多くは新聞社から提供される記事によって初めて成り立っており、WEBサイトが独自に取材して得ている情報は限られている」というのである。

そうした主張を展開する人たちの中には、新聞に対する政府からの公的な助成策を真剣に模索する人たちも現われてきている。彼等は、「独立後、18世紀後半から19世紀のアメリカ政府が新聞に対して行っていた優遇策や支援のことを考えれば、現代において新聞への公的助成を行ったとしても決して突飛なことではない」と主張する。

この「かつてアメリカにおいて新聞に対して政府からの助成があった」という話は、日本人にとって意外なものではないだろうか。我々の多くはアメリカ人、特に新聞人は政府や公的な権力の介入を嫌い、それを排除してきた人たちだ、と思い込んできたからである。私自身1776年の独立以降、19世紀の半ばにかけて、アメリカで新聞に対して様々な助成や優遇策があったという事実を初めて知った時は意外に感じた。

そうした反応はアメリカ人にとっても同じことかもしれない。大多数のアメリカ人は今も、公的助成は自由なジャーナリズムと相容れないと固く信じているが、「独立直後から19世紀半ばに至るまで続いた政府と新聞の関係を、今後の新聞のあり方の参考にすべきだ」という声は徐々に力を増している。

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では具体的に19世紀のアメリカではどのような公的なサポートが存在していたのだろうか。まず当時、連邦政府は新聞の郵送料をきわめて低く設定していた。新聞には官報としての役割が期待されていたからである。1794年の時点で全郵便物の70パーセントは、重さで計れば新聞が占めていたという。また政府は、新聞社のスタッフの中から議会関係の記事を担当する人間を指名し、その者の給料は国が負担していた。初期の新聞事業は税金も免除されていた。新聞事業は私的なビジネスではなく、公的なサービスだと考えられていたからである。こうした考え方は、第4代大統領マディソンの「知識を持った市民と新聞は民主主義社会にとって不可欠だ」という言葉にはっきりと示されている。

アメリカにおいて、官報としての性格を有していた新聞の性格が変わり、新聞が商業資本化するのは南北戦争が始まる前の頃からである。19世紀の後半になると、財源を広告収入のみに依存し、公的な支援に頼らない、いわゆる「フリープレス」が誕生し、政府から新聞に対する各種の補助は姿を消していった。

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21世紀の現在、上記の歴史的事実を踏まえ、少なからぬ人々が「新聞に対する公的助成復活の可能性を真剣に考えるべきだ」と声を上げ始めた。その際注目されるのは、彼等が「公的な助成は既存の新聞に対するbailout(救済)であってはならない。援助は既存の経営パターンから脱皮した新聞に対するものでなければならない」と主張している点だろう。

具体的には彼等は次のような提案を行っている。まず新聞を配達するための郵便料を下げること。若い人たちに仕事の場を提供する政策をメディアについても行い、メディアを志望する若者に、トレーニーとして実際に新聞で働ける場をこれまで以上提供すること。さらに、中学や高校の学校新聞の制作を新聞記者がサポートすることも提案されている。時間はかかるが、これらのことを通して新聞が人々にとってもう一度身近なものとなり、読者が育っていくというのである。

2009年には上院で、「新聞再活性化法案」と呼ばれる法案が審議された。これは「新聞購読料と広告料のみに依存した、これまでの新聞のビジネスモデルは完全に終焉した」とした上で、新聞に対する個人の寄付を所得から控除することなどを提案するものだった。法案は採択には至らなかったが、こうした動きは今後また起きてくるだろう。

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先日、日本のある新聞社の幹部に、サルコジ大統領の実施した新聞支援策やアメリカにおける公的助成を求める動きについて説明したところ、ここでも間髪を入れず、「そんなものを受け取るくらいなら、新聞は潰れた方がマシだ」という言葉が返ってきた。編集権というものが生命線であるメディアにとって、それは当然の反応だろう。ただ世界的に見れば、新聞に対する公的助成という問題はタブーではなくなりつつあるのかもしれない。ノルウェーでは既に、その地域のナンバー2の新聞に公的な補助を行うというユニークな政策も始まっている。日本の新聞がそうした動きといつまで無縁でいられるか、今後に注目していきたい。

(参考)
‘The Death and Life of American Journalism’
by Robert W. McChesney and John Nichols, 2010, Nation Books

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国務院という機関 (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

去年12月17日に書いた『ブルカ・ニカブ禁止法制定から5年』という文章の中で、「フランスの最高行政裁判所であると同時に政府の諮問機関でもある国務院(コンセイユ・デタ)は、この禁止法を制定することについて慎重な姿勢を示していた」と一言記した。その後、読んで下さった方から、国務院とは一体どのような機関なのかというお尋ねを頂戴した。そこで、今回は国務院というフランス独特の組織について記してみたい。この国務院という名前は、フランスのニュースや新聞記事を見ているとしばしば登場することからも分かるように、フランスの司法のみならず政治の分野においても重要な位置を占める機関である。

国務院とはどんな組織なのかを理解するためには、フランスの司法制度が英米のそれとどのように違っているかという点から説明を始めなければならない。法律の世界では大まかに言って、大陸法と英米法という二つの体系が存在している。フランスの司法制度は言うまでもなく前者に属している。

大陸法ではいわゆる成文法主義の考え方が採用されており、議会や政府が作った体系化された法律が裁判を行う上での法源(判断の根拠)とされる。一方、英米法の下では成文法より判例が重視され、裁判所が積み上げてきた判例が先例となって、それに拘束力が与えられる。つまり、あとから裁判を行う者は判例を踏まえた上で判決を下さなければならないのである。

また裁判所の体制も異なっている。具体的には行政事件を担当する裁判所はどこかという点において、フランスなど大陸法の国と英米法の国との間には決定的な違いがある。

ではその行政事件とは何か。それは公権力の行使(処分)が適法であるかどうかという問題をめぐって、処分の取り消しや変更が争われる事件のことである。つまり主に住民や国民と行政の間の紛争を扱う裁判が行政裁判である。別の言い方をするなら、国家や行政府が裁判の一方の当事者になった裁判が行政事件であり、その典型は不服申し立てである。

この行政事件をめぐる訴訟(行政裁判)に関し、フランスでは一般の裁判所とは別の系統の行政裁判所と呼ばれる裁判所が設置されており、ここが行政裁判を担当することになっている。これは「二元的裁判制度」と呼ばれるもので、フランスの司法制度の大きな特徴である。行政裁判権は司法裁判権から独立し、行政権の一部と位置付けられており、行政裁判所の裁判官も行政官とされている。行政裁判所は戦前の日本にも存在したが、第二次大戦後、それは廃止され、通常の裁判所が民事、刑事の裁判だけでなく、すべての裁判を担当するようになった。

この他、英米法の国においては、法律が憲法に反していないかどうかを判断する「違憲立法審査権」も通常の裁判所が有しているが、フランスにおいては憲法院(Conseil constitutionnel)という別の機関がそれを行使する。

この他、大陸法の国と英米法の国とでは裁判の進め方も違っていて、後者の国々の多くでは陪審制が採用されている。フランスやドイツでも陪審制に近いものはあるが、そこでは陪審員(参審員)が職業裁判員と一緒になって裁判を進めていくのに対し、アメリカに代表される英米法の国の裁判では、職業裁判官が加わらない陪審員の評議によって判決が決定される。

その他、裁判官の養成方法も違っており、フランスやドイツでは最初から裁判官を裁判所の内部で訓練し育てていく仕組みが確立しているが、英米法の国では弁護士など、司法の現場の経験を積んだ人たちから裁判官が選ばれることが多い。いわゆる「法曹一元制」である。

日本の司法制度は大陸法と英米法双方の影響を受けているが、裁判官の育成という点から言えば、ほとんど完全に大陸法型である。少々脱線するが、私は弁護士が「在野(法曹)」などと呼ばれるのを聞くと、強い違和感を覚える。何で弁護士という職業が「野」なのだろう。「在野」という言葉からは「官尊民卑」や「お上意識」のようなものが感じられてならない。

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以上長々と大陸法と英米法の違いを書いてきたが、今回のテーマはフランス独特の機関である国務院についてである。

国務院は、先に書いた行政に関する事件を専門に扱う行政裁判所の体系の最高裁判所であると同時に、法律上の問題に関して政府から諮問を受け、それに答える役割も担っている。具体的には、法律・法案や政府の法的な判断が憲法に反していないかをチェックしていくのである。このように行政裁判に関する最高裁判所である国務院には、純然たる司法機関以外の役割も求められている。私の理解では、それは日本の内閣法制局に近い機能だろうか。

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私は法律の専攻ではないが、学生時代法律の授業で行政法を受講したことがある。単位を取ることだけが目的の怠惰な学生だったが、そこでフランスの行政裁判所の説明を初めて聞いた時、不思議でならなかったことがある。それは、「行政裁判所のような純粋の意味での司法機関とは異なった性格の機関の下で、公権力が被告となった裁判を公正に行うことは出来るのだろうか」という疑問だった。

もちろん日本においても、行政事件に関して裁判所は行政寄りの立場に立つことが多い、という批判は根強い。私自身、最高裁の判事に行政官庁や検察のOB、法制局長官経験者などが加わっているのを見ると、不思議な気がすることがある。そうした人たちももちろん裁判官になった以上、それまでの経歴はチャラにして、行政事件に対しても一法律家として取り組むことになるわけだが、日本の社会ではある組織で働いたことのある人間には、そこを離れた後も古巣に対して帰属感と忠誠心を保ちがちなところがあるから、考えなくてよいことまでつい想像してしまう。

アメリカがすべて良いとは思わないが、高位の裁判官や公職の任命にあたっては、上院は国民を代表するかたちで候補者に関する審議を行う。委員会が候補者の経歴、思想、識見を徹底的に洗い出し、候補者本人も議会に出席して自分の信条を明らかにする。そのことによって国民はその人がどんな人なのかを知ることができる。こういうのはやはり良い制度なのではないだろうか。日本で普通の市民がある裁判官がどのような人間なのかを知ることができる機会は、最高裁判所裁判官の国民審査の時くらいのものだろう。その際、選挙公報のようなものが配布されるが、それ一枚を読んだだけでは何もわからない。

最後はフランスの国務院の話から脱線してしまった。これまで何度も書いてきたことだが、他所様の国のことを理解するのは本当に難しいと思う。特に裁判に関する記事は、日本と制度が大きく違っているだけに特にハードルが高いと感じる。

(参考) 『フランス法』(滝沢正、1997, 三省堂)

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河村先生新著書評 (『週刊東洋経済』)

『週刊東洋経済』 2016年6月25日号に、河村雅隆先生の新著『端倪すべからざる国』の書評が掲載されました。著作権者の許諾を得て本HPにも掲載します。もう一度ここをクリックして紙面のイメージでお読み下さい。

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フランスの政治における「左」と「右」 (河村雅隆)

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

フランスの政治を見ていて分かりにくいのは、冷戦構造が崩壊した後になっても、「左派対右派」の対立という図式で国内の政治的な対立が説明されることが多い、ということである。日本にも似たような用語はあって、最近ではあまり見かけなくなったが、メディアは長い間、「保守対革新」などという表現をよく使っていた。しかし、そんな図式が現実を説明するために無力だということは、多くの人が承知していた。

ところがフランスの政治では、左派勢力というのは大きな現実的なパワーであって、右派の共和党などと常にぶつかり合ってきた。一例をあげれば、大統領選挙の第2回投票(決選投票)はほとんど例外なく、左派右派両陣営を代表する候補者同士の一騎打ちになってくるのである。

しかし、左派と言ってもそれを構成する人たちの経歴や性格は、日本の左翼とは大きく異なっている。たとえば社会党の長老、ジョスパン元首相などは、フランスきっての名門校、ENA(国立行政学院)の出身であって、外務省など中央官庁に勤めた経験を持っている。つまり高級公務員が左派陣営に加わったのである。しかし、彼の中においては左派的な思想を持つことと国家公務員であることの間には、何の矛盾も存在していなかったろう。

このようにフランスの政治においては、左対右という対立軸が長く存在してきた一方で、左と右の間には人材の共通性があるという、日本人には分かりにくい状況が長く続いたのである。

ただ、この左対右という図式がこのところとみにぼやけてきた。一段と分かりにくくなってきた。去年末の地域圏(州)議会選挙の第二回投票において、極右・国民戦線(FN)の進出を抑えるために、左派の社会党が自分たちの支持者に対し、右派の共和党への投票を呼び掛けたり、逆に右派の政党が左派の政党へ投票を要請したりしたことは、フランスの政治がFNの伸長を機に、その様を大きく変えつつあることを示している。このあたり、最近日本で共産党が次回の参議院選挙において、反安倍勢力の結集をめざして、自党の候補者を立てない可能性を示唆していることを想起させ、興味深い。

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国民戦線研究の第一人者、パリ政治学院のパスカル・ペリノー教授によれば、上記のような動きは別に目新しいことではない。前回2007年の大統領選挙において、右派の候補だったニコラ・サルコジは左派の支持者から多くの票を獲得したし、一方左派・社会党の候補だったセゴレーヌ・ロワイヤルは右派の支持基盤に対し、積極的に働きかけを行った。たしかにロワイヤル氏は選挙戦において、国民戦線のように三色旗や国歌を多用し、その周りに支持者たちは終結し、「強い国家」というイメージを演出していた。

そうした動きを分析してペリノー教授が何より強調するのは、長年フランスの政治を特徴づけてきた「左か右か」という図式は、もはや意味をなさないこと、そしてその背景にあるのは急速に進行する社会の多様化だ、という点である。

2010年9月の数字になるが、フランスソワール紙の行った調査によれば、フランス人の62パーセントが「自分は左派か右派か、そのいずれかに属している」と回答する一方で、33パーセントの人間が「自分は左派でも右派でもない」と答えている。特に18歳から24歳までの若者では、52パーセントが「自分は左派でも右派でもない」と回答しているのである。今同じ調査を行ったら、この数字はもっとずっと高いだろう。

長年二極化されていたフランスの政治構造が大きく変わってきた原因として、ペリノー教授はふたつの理由を挙げていて、説得力がある。

理由のひとつは、1970年代の終わりから、欧州議会選挙、地域圏(州)議会選挙などで比例代表選挙の仕組みが導入されるようになったことである。その結果、政治の「比例化」が進み、それまでの「左か右か」という二極構造の下では政治の場から排除されていた国民戦線などが、直接、政治に参加するチャンスを手にしたのである。

ふたつ目の理由としては、1980年代以降から恒常化したコアビタシオン(保革共存政権)が、「左か右か」という図式をきわめて曖昧なものにした点が挙げられる。コアビタシオンとは現行の第5共和政において、所属勢力の異なる大統領と首相が共存する状況のことである。たとえば右派の政党の大統領と左派の政党の首相、あるいは左派の大統領と右派の首相という組み合わせをいう。1986年から88年までの左派ミッテラン大統領と右派シラク首相、1993年から95年までの左派ミッテラン大統領と右派バラデュール首相、1997年から2002年までの右派シラク大統領と左派ジョスパン首相がその例である。こうした保革共存という事態の日常化が、従来からの政治の二極化という性格を弱めていったのである。

来年、2017年、フランスでは大統領選挙が行われる。この選挙、特に第二回目の決選投票が、これまでのように「オール左派対オール右派」という形態を保ち、フランスの政治の枠組みが維持されるのか、それとも国民戦線(FN)とその伸長がこの図式を変えていくのか、フランスの政治は今、重大な選択肢を前にしている。

(参考文献)
Pascal Perrineau, Le Choix de Marianne 〔マリアンヌ〔=フランス〕の選択〕, Fayard, 2012, 序論および第一章

 

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