「フランスの数学者たち」(2014年度「文化事情(フランス)I」 における講義の資料)はこちらをご覧下さい。(2015年5月5日)
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(2013年3月5日公開)
単数形の数学
川平友規(数学、名古屋大学大学院多元数理科学研究科准教授)
フランス語で「数学」を意味する単語は mathématique ですが、通常使われるときは複数形で(冠詞もつけて) les mathématiques といいます。この用法の歴史は古くアリストテレスにまで遡るといわれており、以来習慣的に、数学は複数形ということになっているのだそうです。ちなみにお隣の物理学や化学は la physique、la chimie で単数扱いですから、ちょっと変わった感じがします。
なにか複数のものが寄せ集まって、「数学」という束ができあがっている。この「複数形の数学」という感覚は、20世紀の始めごろから現実になりつつありました。学問として成熟した数学は多くの分野に分かれてしまい、よほどの天才でなければその全貌を把握することは困難、という時代に突入したのです。
そうした中、1939年、ニコラ・ブルバキ (Nicolas Bourbaki)という数学者が突如として現れ、フランス語で『数学原論』とよばれる教科書シリーズをつぎつぎに世に送りはじめました。その原題は “Éléments de mathématique” で、”Éléments de mathématiques”(数学の部分が複数形、習慣的にはこちらが正しい)ではありません。かつて『数理科学は分かつことの出来ないひとつの有機体である』と述べたのはドイツの大数学者ヒルベルト(1901年)ですが、その精神を受けついだこのブルバキという人物は、『数学原論』という連作を通して数学の「統一化」を目指したのです。たとえば数学の核となる、概念や記号の統一。本の書き方も、「一般から特殊へ」というスローガンのもと、きわめて抽象的な枠組みからスタートしていき、具体例として今日までの数学が浮かび上がる、という構成をとりました。そのスタイルはブルバキズム(Bourbakism)という言葉とともに数学の世界を席巻しましたが、結果的に、彼のもくろみは成功には至りませんでした。数学の成長速度は著しく、「一般」や「特殊」といった概念すら安定したものではなかったのです。ブルバキはある時点から『数学原論』の執筆をやめ、シリーズは未完のまま長い沈黙状態にあります。数学もまた21世紀に入り、枝葉を増やし多彩な花を咲かせ、ふたたび複数形に戻ったかのようです。
ニコラ・ブルバキは数学を単数形とみなしましたが、じつは面白いことに、ブルバキ自身が単数形ではありませんでした。フランスの、ある若く優秀な数学者グループが用いる共通のペンネーム。それがブルバキの正体だったのです。この事実は1950年代ごろにはすでに公然の秘密であり、実働メンバーこそ明かされないものの、過去のメンバーは錚々たるもので、フランス数学界のエリート中のエリートばかりだったようです。
フランスの数学者の友人に、いまブルバキはどうなっているのか、と聞いたことがあります。「さあよくわからないけど、誰々がブルバキのカルト・ブルー(carte bleue、銀行のキャッシュカード)を持ってるはずだよ」と、冗談交じりの答えが返ってきましたが、たしかに著書『数学原論』の印税は相当なもので、ブルバキのメンバーが集まるときは渡航費も滞在費もすべてこの印税でまかなわれていた、と伝えられています。しかし本がアップデートされなくなった現在、銀行口座の残金はいかがなものでしょうか。
さて私が実際に会ったことのある旧ブルバキのメンバーに、アドゥリアン・ドゥアディ (Adrian Douady) という人物がいました。彼は「フランスで英語の講演をするのは犯罪」と言うほどの「愛 国語」主義者で、パリで行われたワークショップでは、参加者相手に「フランス語で詩を読む会」なるものを主催していました。背伸びをして輪に加わった私も、他の外国人参加者と一緒に彼の後についてボードレールを読み上げたはずなのですが、内容はすっかり忘れてしまいました。あのときはドゥアディの作り出すすばらしい数学の世界と、ボードレールの詩になにか奥ゆかしいつながりがあるのではないか、などと期待をしていたような気もします。
拙稿『フランス語で数学を』* でも述べましたが、英語隆盛のこの時代、フランスだけはいまだに自国語で論文を書くことを許容するムードが残っています。フランス数学のレベルの高さゆえではありますが、ドゥアディのような優秀かつ「愛 国語」主義的人物に支えられているところも多いのではないでしょうか。
参考までに述べておきますと、「数学のノーベル賞」ともいわれるフィールズ賞の国籍別受賞者数は、アメリカの13名についでフランスが2位の11名。ちなみに日本は5位で3名。人口あたりの受賞者数でいうと、フランスと、同じく仏語圏のベルギーが突出して高いのです。伝統あるエリート教育がその秘訣のようですが、私には彼らの話すフランス語が、人と数学を結ぶ魔法の言語のように思われるときがあるのです。
* 「フランス語のすすめ」のコーナーに掲載
川平 友規(かわひら ともき)
名古屋大学大学院多元数理科学研究科准教授。専門は複素力学系理論。
京都大学理学部卒業、東京大学大学院数理科学研究科博士課程修了。
日本学術振興会特別研究員を経て、2004年名古屋大学大学院多元数理科学研究科助手。2010年より現職。
フランスでの研究歴は2003年アンリ・ポアンカレ研究所(パリ)、2008年高等科学研究所(パリ)、2008–2009年プロヴァンス大学(マルセイユ)など。
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