河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
こんなことを私が言うのはおこがましい限りだが、根っ子を深く張らなければ木は大きく育たない。すぐに役立つものはすぐに役立たなくなる。世代論は嫌いで、結局は個人差ということだと思うが、それでも今の学生諸君は直ぐに役に立たないことや、自分にとってどんなプラスがあるかが見えないことに対して、あまりにも消極的だと思う。
授業で私は英語の資料をよく使う。メディアの世界はどうしてもアメリカが軸となって展開していくから、英語で書かれた資料はどうしても欠かせない。別に英語の授業ではないが、テキストを読んでいく中で英語や外国語の勉強の仕方について触れることも時々ある。
そんな中で驚かされるのは、単語を覚える中で語源ということをこれまで全く意識したことがない学生がほとんどだということだ。彼等は、中学校や高校で先生から語源などという話を聞いたことは一度もないと言う。いわゆる進学校から来ている学生もそうだ。
驚いた私が「ヨーロッパの言語では重要な単語はほとんどギリシャ・ラテン語から来ているのだから、そこを押さえれば単語は比較的容易に覚えられる」と言って、辞書のGkとかLとか書かれた部分に注目してみなさいと言っても反応はない。語源を意識することによってボキャブラリーがどんどん増えていく例として、simultaneous という語が出て来た時、similar、facsimile といった単語は皆同じ simil- 「同じ」という根っ子を持っていること、同じものを fac- 「作る」から facsimile であることなどを説明して、「語源の知識があれば、未知の単語が出てきた時も意味の見当がある程度つくようになるし、他のヨーロッパの言語を勉強する際も非常に役に立つ」などと話しても、それに何の意味があるのかといった感じだ。
先日、教員免許更新講習というもので、現役の先生に話をする機会があった。折角のチャンスだったので、高校で英語を教えている先生に、授業で語源に触れたりすることはないのかと質問してみた。何人かの先生から異口同音に返ってきたのは、「そんなことを教えている時間はない」という答だった。学習指導要領にはそんなことを教えるよう書かれていない、という話もあった。「時間がないからこそ、元から教えていった方が効率的ではないか」と反論したのだが、賛同は全く頂けなかった。
残念なことだが、今まで述べてきたような事情は、日本では明治以来変わっていないのだろう。我が敬愛する森鷗外先生は、クラスメートが「単語を記憶できない」と嘆くと、「どうして語源から覚えないのか」と不思議でならなかったそうだ。
いつまで経っても知らない単語が減らないことに絶望し続けている自分だが、それでも鷗外先生に倣って元から身に付けていこうと努めている。そして教養の教室で、理学部で生物学をやりたいという学生がいると、「君はこれから山のように学名などを覚えていかなければならないのだから、alb- は『白』、nigr- は『黒』とかいったことを知っていれば、記憶はずっと楽になるだろうし、生物や物体の形状も捉えやすくなるんじゃないか」などと話している。