河村雅隆: 人生3びっくり

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

亡くなった丸谷才一さんに『人生三びっくり』という愉快な随筆があった。「第二次大戦が終わって間もない頃、ある人の家を訪ねたら、食卓にサイコロ形の小さな氷がたくさん出てきた。どうすれば氷をこんなに小さくきれいに切れるんだろうと不思議だったが、それらは冷蔵庫の冷凍庫というところで出来るものだと知って腰を抜かした」というような文章だった。丸谷さんが経験したという、あとふたつのびっくりについてはここでは書かない。

私にも人生3びっくりという経験はある。長く生きてくる中で、上位3つが更新されていくかと思うと、実はトップスリーの顔ぶれはほとんど変わらない。その中で不動のトップは次のような出来事である。

社会に出て働き始めた地方の放送局の職場で、外国の新聞か雑誌に目を通していた時のことである。当時は今みたいに簡単にインターネットで海外の本など購入できなかった。苦労してやっと手に入れた印刷物を早く見たいと、休み時間か何かに横文字の印刷物を広げていたのだろう。

そんな私のところに地元出身の上役がつかつかと歩み寄って来て、こう言った。「君は外国語が達者だとか聞いていたが、読む時、字引ばっかり引いているんだね」

言われた言葉の意味がわからず、私はその人の顔をまじまじと見返してしまった。しばらくしてその意を理解した私は、こんなふうに答えたように記憶する。「いつまで経っても知らない単語ばっかりで、いい加減厭になりますよ」

世間知らずで生意気盛りだった私だが、「外国語のできる人ほど頻繁に辞書を引くものでしょう」と言い返さないくらいの世間知はあった。その後、職場の若衆頭みたいな先輩からは、「お前、ああいう本はあんまり職場で読むな。自分の家で読め」とも言われた。多分上役の人が言わせたのだろう。

別に腹も立たなかったが、こんな人が職場の幹部なのかという驚きはあった。さすがに今はそういった管理職はいなくなっただろう。

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時間はそれから10年以上経過する。

日本の放送においてニュースキャスターという存在を創造し、それを定着させた磯村尚徳さんというジャーナリストがいる。今はメディアコースの学生ですら知らない人間が多くなってしまったが、1980年代のブラウン管の中で磯村さんは常に光り輝いていた。その磯村さんと一緒に海外を舞台に取材や番組制作にあたれたことは、私の放送人としての誇りである。磯村さんから学んだことは山のようにあるが、中でも最大のものは「こんなに秀れている人がこんなにも努力するのか」ということを目の当たりにできたことである。

磯村さんと言えばフランスである。戦前、駐在武官だった父君に従ってフランス語圏で育った磯村氏のフランス語のことは、フランス人も「フランス人の話すフランス語より美しい」とよく言っていた。

そんな氏は移動する飛行機や列車の中で、それこそひっきりなしに辞書を引いていた。単に単語を調べるだけでなく、より適切な言い回しはないか、常に探していた。また、現地の新聞を毎日大量に買い込んでは、新しい表現はないか、現地の人は今何に関心を持っているのか、探求を怠らなかった。

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後に私は放送局の中でプロデューサーという立場になって、スタッフを集めて番組を作る仕事にあたることになった。プロデューサーとして私が実行したのは、新人や若手が番組を作る時は、カメラマンやアナウンサーや編集グループのデスクに頼み込んで、一流のスタッフを出してもらうことだった。そうした人たちは売れっ子で、常に予定が詰まっているから、デスクには随分文句を言われたが、それでも押し通したのは、磯村さんと仕事をする中で、一流の人と付き合うことが若手にとって最大の研修の場になると確信していたからだ。一流の人たちと付き合えば、自分がそれまでいかに自己流で自己満足だったかが分かる。そうした人たちに触れても何も気が付かない人間は、それまでのことだ。

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外国で何十年暮らしていても、自分の中身と表現を高めて行こうという意欲を持たない人たちのフランス語や英語は、いつまで経ってもブロークンのままである。私はヨーロッパやアメリカで、そうした人たちを随分見て来たように思う。出来る人はやはりちゃんと勉強して、その成果を仕事や生活の場で積極的に使おうとしている。外国語の力は、細部にこだわる、ある種神経質なところがないと、ブレイクスルーしないものなのかもしれない。「いいやいいや」の人には、いつまでたってもそれがない。かく言う私は、いつか自分もブレイクスルーしたいと思いながら、フランス語や英語の字引を引き続けて何十年も経ってしまった。

 

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