河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
毎週、日曜の午前はテレビで将棋の対局を観戦するのが習慣になっている。将棋そのものが好きというより、対局の様を見るのが好きなのだ。脇目も振らず、ひたすらひとつのことに集中している人間の姿は本当に美しい。そうした姿を眺めるたび、どうしたらこんな集中力を身につけられるのだろう、と思う。囲碁のことはよく知らないが、対局時の姿は将棋の棋士の方がずっと立派のように感じる。
ご贔屓は谷川元名人・現九段で、その所作はどなたかもおっしゃっていたが、能役者のように優美だ。解説者としては森下卓九段が、短いコメントで的確な情報を提供して下さり、有益だ。私は教室で学生に将棋を例にして、「打たれた手そのものは八段も二級も同じでも、その意味することは全く違うんだぞ。何かにトライしてうまくいかなかった時、相手や周りからから『惜しかったですね。もうちょっとでしたね』なんて言われて、それを真に受けているようじゃだめだぞ」と話すことがあるが、そうしたことを裏付けてくれるような、深く見事な解説だ。
先日、その森下九段にこんな文章があることを発見した。氏の師匠で「東海の鬼」と呼ばれた、故花村元司八段についての文章である。
花村先生は「直観」を重んじられた。局面をパッと見て、十のうち九まで最善手を指せるレベルになるまでは、考えても意味がないと言われた。一生懸命に指して番数を積み、直感で9割以上が正解を指せるレベルに達したら、そこで深く精読しなさいと教えてくださった。(『NHK将棋講座』2014年6月号から)
外国語の学習も全く同じことなのだろう。例えばこの従属節は直説法なのか接続法なのかとか、いちいち考えているようではだめなのだ。パッとわからなければならない。9 割直感でわかるようになって、それでもなお疑問に思うことを、さらに深く確認していくことが求められるのだろう。そんなレベルまで到底達していない自分は、エーとあれはどっちだったっけと、いちいち立ち止まって、辞書と相談しながら考えている。
リスニングだって同じことだろう。以前、ある先生からこんな話を伺ったこともある。
「聴くことを熱心に勉強する人間は少なくありませんが、ほとんどの人は聴き取れるようになったと思うと、そこでやめてしまいます。本当に大切なのはそこからで、聴き取れるようになったと思ったテープやCDをずっと流し続け、聴こうとしなくても耳に入ってくるようになるまで続けることが大事なんです」
もちろん自分はそんな段階まで続けたことはないし、行けるわけもない。
フランス語だって初心者に毛の生えた程度の私だが、最近、どういう風の吹き回しか、スペイン語を齧り出した。スタートはしたものの、動詞変化などのあまりに複雑さに、早くもリタイアしかかっている。スペイン語は本当にフランス語の変化が簡単に思えるくらいの難しさだ。
いつも学生には、「外国語の学習は文法を正確に学ぶ、単語の量を増やしていく、学んだことを日常生活や仕事の中で積極的に使っていくことに尽きる」などとエラソーなことを言っているが、自分の吐いた唾が天から返ってきているように感じている。
新聞などを一応読めるようになるのが先か、あきらめるのが先か、それとも命脈が尽きるのが先かわからないが、こんな文章を公にしたら、あと少しは頑張れるかもしれないと思って書いてしまった。