河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
大学院国際言語文化研究科のメディ アコースに籍を置く私は、大学の教養課程でも『比較報道・放送論』という一般教養科目を担当している。授業は縦軸に放送メディアの歴史を置き、横軸には日 本、アメリカ、ヨーロッパの比較を設定し、「放送というマスメディアの誕生、興隆、衰退は20世紀という100年の中にきれいに収まる」ということを説明 していく内容である。
学期の終わりには当然、試験を行うことになるが、試験を実施するたび不思議でならないことがある。問題を配って5分経 つか経たないかのうちに、カタカタと鉛筆を走らせる音が聞こえてくるのだ。90分の試験時間があれば、ふつう最初の四分の一か三分の一かは何を書くかを考 えて構成を立て、然る後に執筆し、最後の何分の一かの時間でもう一度内容を点検するというのが当たり前ではないかと思うのだが、毎回かなりの数の学生が、 試験が始まったか始まらないかの段階で筆を動かし始める。
百歩譲ってこれが法律の試験で、例えば「債権について論ぜよ」とかいうのだった ら、試験前、頭に詰め込んできたことが「こぼれ落ちない」うちにと、スタートダッシュするのも分からなくはない。しかし、私の設問は授業で説明した欧米日 のメディアの歴史を踏まえ、それぞれの特徴の分析などを求めるといった内容なのだ。そんな問題に対して、どうして直ぐに答案を書き出せるのだろう。
理由を学生たちに聞いてみたが、よくわからない。ただ何人かの学生から興味深い話を聞いた。それは、就職試験の作文の部門を受験する場合は、自分なりにあら かじめいくつかの答案のパターンを作っておき、実際の作文は当日出題されたテーマに合わせて微調整するかたちで書いていくという話だった。へーつと思っ た。でも、そんなことって本当に出来るのだろうか。そうしたやり方は就活の参考書にでも書いてあるのだろうか。
提出された答案のうち、すぐ に書き出した人の文章がどれなのかは勿論わからない。しかし、全体に構成が弱いなと感じさせられるものは少なくない。もちろん私だって人のことは言えな い。ひょっとして、構成と論理の脆弱さというのは日本人共通の弱点なのかもしれない。少なくとも「感じたままを書きなさい」式の作文教育が、こうした傾向 につながっていることは間違いないだろう。
ここで、昔、フランス人のプロデューサーと付き合った時、彼等が番組を論じる際、bien construit という言葉を何度も発していたことを思い出した。この言葉は、元々は文章に関して用いられる最高の褒め言葉らしいが、その表現は放送の 世界でも使われることがあるようだ。
フランスの放送局に日本の番組を販売しようと、ドキュメンタリーの試写テープを見せたところ、「映像詩」と評されたこともある。これは褒め言葉ではない。外国に向けて番組を売ろうという時は、日本国内向けの番組に手を入れて、論理を強化したりコメントの 量を増やしたりすることは珍しくないが、それでも彼等にとって日本のテレビ番組の構成は異質だったのかもしれない。試験の立ち会いをしながら、そんな昔の体験を思い出した。