河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
『フランスの政治における「左」と「右」』(2016年5月19日掲載)を読んで下さった方から、「日本では左派と右派との人材の流動性がなかったかのように書かれているが、それは戦後の日本の政界や労働界のことを考えると、必ずしも正しい見方とは言えないのではないか」という指摘を頂いた。まさにその通りである。あまり長い文章になるのもどうかと思い、前稿では、フランスと比べ日本の社会では両派の間で人材が交流する機会は乏しかったと書いたが、日本でも終戦から昭和30年代の前半くらいまでは「左」と「右」の交流は存在したのである。
総理大臣を務めた福田赳夫氏の回想によれば、昭電事件に巻き込まれ、次官の座を目前にして大蔵省(当時)を追われた氏に対し、政治の世界に入るように最も強く勧誘してきた政党は社会党だったそうである。その頃の日本の社会はイデオロギーの対立が激しかった一方で、人材の供給・調達という点では今よりずっと柔軟性があったのだろう。そうした現象は、戦後の労働運動の指導者の多くがいわゆる大卒のエリートだった、ということとも共通するものだった。
名古屋で言えば、「名鉄中興の祖」と呼ばれ、明治村などの建設に手腕を発揮した土川元夫氏は会社の労働組合の委員長を務めた経験を持っていたし、労組の全国組織である総評の議長として労働界を指導した太田薫氏は、元は宇部興産の管理職だった。労働の側を代表していた人物がその後、資本の側を代表する立場に立ったり、企業の管理職だった人間が労働界に入ったりする。そうしたことは、日本の労働組合の多くが「産業別組合」ではなく「企業内組合」だから初めて起こりえたことだろう。労働組合のリーダーと会社の経営者は、同じ釜のメシを食っているという感覚を確実に共有していたのである。
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1970年代の前半頃まで、メディアの中には単純に「保守対革新」という図式で社会の動きを分析しようとするものが少なくなかった。しかし、そうした描き方は日本の社会の現実を反映していないのではないか、と学生だった私は漠然と感じていた。
そんな時、伊東光晴氏の『保守と革新の日本的構造』を読んで、私は目からウロコが落ちるような思いがした。伊東氏は近代市民社会の代表とされるイギリスは日本に比べて身分社会、階級社会であり、一方日本は階層差や身分差が希薄で、階層間の移動が容易な社会であること。しかも平等の思想が生まれたのは「上下差」の強い西欧であり、逆に階級差の少なかった日本では「前近代的」な関係が色濃く残っていることなどを明快に指摘した。当時、世の中には教条的な思考や「正義は我のみにあり」といった硬直したイデオロギーが跋扈していたが、氏は柔軟な発想と鋭利な分析で日本社会の現実を明らかにしていた。
最近、『保守と革新の日本的構造』を読み返す機会があった。読みながら私は「今、この本を初めて手に取った人は、ここに書かれているのは当たり前のことばかりじゃないかと感じるかもしれない」という不思議な感想を持った。人材の「左」と「右」との流動性に関する分析の部分などがそれである。それは、この本そのものが世の中の常識を作っていったということなのだろう、と思う。
時代の常識を作った本というのは他にもある。法社会学者の川島武宜氏の名著『日本社会の家族的構成』もそうした光栄を担った書籍のひとつだろう。教室で学生に「どうだ、題名を聞いただけでも面白そうな本だろう。読んでみないか」などと誘うのだが、反応はない。せめて一部だけでも知ってもらおうと、伊東氏や川島氏の著作のさわりのところだけを引用したりコピーして配ったりすることもある。伊東先生や川島先生には申訳ないが、イギリスの歴史家が言ったという「人類の英知は引用されることによって継承されていく」という言葉に免じて、勘弁していただこうと思う。