河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
フランスにおけるメディアと政治の関係を見ていると、第5共和政・初代大統領、ドゴール (Charles de Gaulle, 1890-1970) が果たした役割と彼の敷いた路線が、今日まで如何に大きな影響を与えているか、ということを痛感させられる。一言で言ってしまえば、フランスでは政治とメディアの距離はきわめて近いのだ。そうしたメディアの性格はドゴールの時代も現在も本質的には違わない。
例えば2009年、オランド現大統領の前任者であるサルコジ大統領は放送法を改正し、公共放送・フランステレビジョンのトップは大統領が直接指名することを決定した。その後、オランド大統領の下で大統領の権限は見直され、指名権はCSA(視聴覚高等評議会)に戻されたが、サルコジ氏の例からも窺われるように権力は常にメディアの各所に自分たちの息のかかった人間を配置しようと試みるし、新聞や放送を見る側も、そうしたことを承知の上で毎日のニュースに接している。
そもそも権力と政治との関係はメディアにとって永遠の課題である。アジアにおいても、例えば中国ではジャーナリストは純粋な報道人と言うより、何よりも「権力に近い存在」と世間も記者自身も考えているふしがあるが、フランスにおいてもメディア、特にその幹部に関しては似たようなところがあるように思う。
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ドゴールがフランスという国家の全権を握ることが出来たのは、1950年代から60年代にかけて、フランスでは北アフリカの植民地・アルジェリアをめぐって国論が二分し、国家が分裂寸前の状態にまで至っていたからである。その危機を救ったのがドゴールだった。彼は議会からいわば全権を委任され、共和国の再建をめざしたのである。
19世紀以降、フランスはアルジェリアを支配し、そこに3つの直轄県を置いて本国の一部としていた。アルジェリアは、アフリカやアジアに保有するフランスの広大な植民地の中で最も重要な地域だった。
しかし第二次世界大戦が終結すると、アルジェリアでは独立を求める動きが急速に高まり、宗主国に対する抵抗運動が拡大した。それに対し第4共和政下のフランス政府は、運動をひたすら力で押さえ込む姿勢を崩さなかった。地中海を挟んだ対岸のアルジェリアはフランスに近く、本国はそこにあまりに多くの利権を有していたからである。
このHPの『レジスタンス活動家のパンテオン顕彰』についての回でも書いたように、フランスは第二次世界大戦において、実はドイツに完敗した敗戦国だった。しかしそのフランスは、アメリカを中心とする連合国によって解放された途端、一転して戦勝国となった。戦後発足した国際連合の中でフランスは常任理事国の座を確保できたし、ドイツの中の、例えばベルリンにはフランスが統治する地区まで獲得したのである。
今日、多くのフランス人の頭に残っている大戦のイメージとは、大西洋を越えてやってきたアメリカ軍と内からのレジスタンスが呼応して、ナチスドイツは駆逐され、祖国は解放された、というくらいのものではないだろうか。敗戦国だったのに、自分たちは敗れたとは一向に感じていないらしいフランス人のメンタリティは、第三者から見ると摩訶不思議だが、1950年代前半、ヨーロッパに長く滞在した竹山道雄氏の『フランス滞在』(『ヨーロッパの旅』の一章)には、当時のフランス人の自負と、その一方での社会の混乱が鮮やかに記録されている。
大戦の終結後、戦前の植民地帝国が復活したぐらいにしか考えていなかったフランス人たちの前に突き付けられたのがアルジェリア問題だった。「戦勝国」フランスの肩に、植民地の問題をどう処理するかという重荷が残されたのである。この問題をめぐって第4共和政下の内閣は、独立運動を弾圧する以外の対策を見出せなかった。議会では小党が乱立し、有効で確固たる方針を打ち出すことが出来なかった。そんな中、徴兵されてアルジェリアに行かざるをえない若者の間から不満と怒りの声が上がった、その時代の感情は、映画『シェルブールの雨傘』などに明らかだろう。
独立運動を力で抑えようとする政府の方針をめぐって、フランス国内の世論は分裂した。左派陣営や知識人の多くはFLN(アルジェリア民族解放戦線)を支持し、人権の祖国・フランスが北アフリカで「汚い戦争」を続けていると、政府を糾弾した。一方、右派や軍部は国家の威信と利権の維持を主張し、国論は文字通り真っ二つに割れた。1958年5月、事態はアルジェリアに駐留するフランス軍が本国のコントロールを拒否するという事件にまで発展し、フランス共和国は崩壊寸前の状態に陥った。
ここはアルジェリア問題を論ずる場ではない。しかし、ドゴールが絶対的な国家元首の座を占めるようになるまでの事情に触れないと、彼が就任後なぜメディアを重視したのか、そしてそれがその後の政治とメディアの関係にどのような影響を与えたかについて述べることができないので、もう少し続けさせて頂きたい。
この国家崩壊の危機に際し、国を救うことができる唯一の人物として白羽の矢が立ったのがドゴールである。軍人だったドゴールは第二次大戦中、ロンドンに亡命し、そこで臨時政府「自由フランス」を組織した。パリ解放の後、彼は第4共和政の下で故国の首相の座に就くが、現実政治の煩わしさに愛想を尽かし、わずか半年で首相の座を降り、1958年当時は事実上の隠遁生活を送っていた。そのドゴールしか軍部を抑えることのできる人物はいない、と誰もが考えたのである。
ドゴールはまた戦時中、BBCのラジオ国際放送を通して、英国からフランスの人々にドイツに対する抵抗を呼び掛けた経験を持っていた。そのことは、戦後フランス人の間で神話となっていたし、ドゴール自身、その神話を事あるごとに利用しようとした。ロンドンからラジオ演説を行った体験は、ドゴールに放送というものの影響力を認識させ、そのことは政権を握った後、ラジオやテレビをきわめて重視する姿勢へつながっていくことになる。
1958年6月、首相の座に就いたドゴールは9月、新しい憲法を国民投票によって承認させた。いわゆる第5共和国憲法である。新しい憲法はアルジェリア危機を収拾させるために、大統領にきわめて大きな権限を与える内容だった。次いでドゴールは、国会議員や地方議会の議員などから成る選挙人団の圧倒的な支持を得て大統領に選出され、アルジェリア危機を収束させるための全権を手にしたのである。
ここで注目すべきは、ドゴールを大統領に選出したのは国会議員や地方議員を中心とする選挙人団であって、国民の直接選挙で新大統領が生まれたのではない、という点である。つまり、立法府は自らの権能を手放すかたちで、強い大統領を誕生させたのである。なぜ議会がそのようなことを容認したかと言えば、この時点、フランスでは、アルジェリアをめぐる問題の処理がすべてに優先されたからである。
しかし、議会の権能を奪うかたちで強力な大統領職を手にしたことにより、ドゴールの政権はその後長く、「永遠のクーデター」という非難を浴びることになる。大統領を支持するゴーリストたち(ドゴール派)にとっては、そうした批判を克服し、第5共和政という体制の「正統性」を国民に納得させ、定着させることが最大の課題となった、そのために最大限利用されたのがメディアだった。
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ドゴールの下で成立した第5共和政は、一言で言えばドゴールの身の丈に合わせて作られた体制だった。憲法は大統領の権限を強調する一方で首相についての記述はきわめて少なく、首相は大統領に代わって議会に対して責任を負うなど、若干のことが定められているにすぎない。
ドゴール自身、首相や政府とは大統領自身が決定した政策を実施していくための執行機関にすぎないと考えていた。彼は首相のことをchef du gouverment(政府の長)と呼ぶことすら嫌ったという。それは政府とは自分自身のことだ、と考えていた彼にとって当然のことだった。特に外交や国防は、大統領自身が直接、決定を下す分野だった。
それではそういうドゴールの権力基盤はどこにあり、彼の政治手法とはどのようなものだったのか。
ドゴールの権力基盤は、議会や政党といった既存の政治システムの中には存在していなかった。既存の政治の枠の外から登場したドゴールにとって、頼りとなるのは自身のカリスマ的なパーソナリティだけだった。彼は自分をフランス社会の各パート、各階層を超越した存在と位置づけ、そのように自らを演出した。そのさまは発展途上国の独裁者のようだとも、現代のボナパルティズムとも評されるほどだった。ボナパルティズムとはマルクス流に言えば、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立が均衡状態にあり、どちらか一方の支配が実現しがたい時、調停者のようなかたちで登場する専制的政治権力のことである。19世紀半ばのナポレオン3世がその典型である。
ドゴールにはまた、「放送やテレビをコントロールする者だけが、国の政治のアジェンダ(議題)をコントロールできる」という確信があった。その意味で、ラジオに代わって新しく登場してきたメディア=テレビは、フランス全土に瞬時に自分の考えを伝えることの出来る、掛け替えのない手段だった。重大な決定を公にする時、彼は常にテレビ通して重大発表を行うというスタイルを採用したが、それは劇的な政治的効果を狙ったものだった。ドゴールがテレビ演説を行う時、閣僚すらその内容がどのようなものになるのか、事前には承知していなかったという。大臣も議員も放送を通して、初めて政治のアジェンダを知ったのである。
こうしたドゴールの政治手法を「テレクラシー」と評する人もいる。フランスにおいて、第5共和政が軌道に乗るのと、テレビの急速な普及が同時進行で展開していったことは、決して偶然ではない。ドゴールはコメディ・フランセーズの名優を指南役に迎えて、テレビ出演する時の表情や発声はどうあるべきか、研究を怠らなかったという。
アルジェリア危機がピークを迎えた1960から62年にかけて、彼は通算21回もテレビに登場し、自らの方針を国民に直接説明した。中でも、アルジェリア駐屯の舞台が本国に攻め寄せてくる寸前にまで至った1960年1月の危機の際には、軍服を着用して画面に現われ、自分が国軍の最高指揮官であることを強くアピールした。
このように放送メディアを重視したドゴールとゴーリスト(ドゴール派)にとって、放送局という組織を手中に収めようと考えることは自然の流れだった。ゴーリストは編集責任者などの枢要なポストにドゴール派の新聞出身者などを任命して、放送内容をコントロールした。ゴーリストたちが放送に求めたのは、決して多面的で公平な取材などではなく、あくまで自分たちの側に立った報道だった。例えば選挙の報道において、ドゴール派の主張には多くの時間が与えられ、野党の反論はカットされることすら珍しくなかった。
番組の内容にもゴーリストの意向が反映された。ドゴールの政治的な目標は、アメリカに従属しない独自外交の追求であると同時に「フランスの栄光」の追求だったが、そうした思想を反映して、放送には「フランスの栄光」を視聴者に知らしめる役割が課せられた。ORTF(フランス放送協会)が放送するドラマでは、フランスの全盛期、ブルボン王朝時代の古典劇が多く取り上げられたのである。
先に、ドゴールは放送によって政治のアジェンダを設定しようとした、と書いた。そのような統治者の意思は、民意を選挙や議会を経由して吸収するのではなく、国民投票というかたちで国民の選択を直接問う政治手法に直結していった。ドゴールは重大な政治的選択を行うにあたって、国民投票を何度も実施している。具体的には1961年に行われた、アルジェリア人民に自治権を与えることを承認するかどうかの国民投票、翌62年のアルジェリアの独立を認めるかについての投票などである。
大統領の選出方法に関しても、1962年、ドゴールは国民投票に諮って憲法を改正し、大統領は国民の直接選挙によって選ばれることになった。国民に語り掛け、議会を介さずに直接国民から支持を取り付けようとした彼にとって、直接選挙による選出は、自らの力を誇示し強化するための望ましい制度だった。
しかし、国家元首がテレビで国民に直接語り掛け、そこに支持と権力の基盤を確保しようという手法は、国民に次第に厭きられるようになった。戦争や植民地紛争が続く限りドゴールは求められたし、ドゴールも「自分がいなくなればカオスがやってくる」というメッセージを送り続けた。しかし、アルジェリア危機が峠を越し、平時が戻ってくれば、カリスマ的な指導者に鬱陶しさを感じる人が増えてくるのは避けられなかった。家父長的なリーダーへの反発は、1968年、学生運動に端を発する「5月革命(危機)」となって爆発することになる。
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この文章の冒頭で、フランスにおける政治とメディアの関係において、ドゴールの遺産は今日まで大きな影響を与え続けている、と書いた。政治家がメディアを重視し、それに対し露骨なまでに影響力を行使しようという姿勢は、ドゴールもその後の大統領も変わっていない。1974年、非ドゴール派出身者として初めて大統領の座に就いたジスカール・デスタンは、ORTF(フランス放送協会)を解体し、複数の放送局に再編したが、それは非ドゴール派にとって、ORTFはゴーリスムの牙城と考えられたからである。ジスカール・デスタンによるORTFの解体は、それ自体、政治的な運動の産物であり、フランスにおける政治とメディアの関わりの深さを逆説的に示す事件だった。
1980年代後半になると、フランスの放送界はミッテラン大統領によって民営化が進んだ。1987年にはORTFの後身であるTF1も民営化された。しかし、新たに誕生した放送局は、アメリカ流の商業放送局とはかなり性格が異なっている。フランスの放送局を訪ねると、この間まで政治家に従って中央省庁の中の官房で働いていたなどという幹部に会うことは決して珍しくない。フランスにおける政治とメディアの関係は、政権や政党が放送局の人事や具体的な番組内容に介入することを自制してきたとされるイギリスとも、また大きく違っている。
1989年には放送機関を第三者の立場から管理・指導する独立規制機関・視聴覚高等評議会(Conseil supérieur de l’audiovisuel)が発足した。しかし、公共放送・フランステレビジョンのトップ人事をめぐる指名権の問題が浮き彫りにしたように、その権威はアメリカの連邦通信委員会(FCC)には遠く及ばない。政治とメディアの関係は、フランスのメディアは、ドゴールの呪縛から自由になったとは、まだとても言えないようである。