河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
社会に出て組織の中で仕事をするようになってまず教えられたのは、「仕事とは『ほうれんそう』、報告、連絡、相談だ」ということだった。私の職場は放送局だったから、この三つを正確に繰り返していかないと、毎日の仕事は大変なことになってしまうのだった。特に大事なのは、「いつでも連絡が取れる」ということだった。大きな事件や事故が発生して、みんながワーワー大声で仕事をしているところへ、自分だけ遅れて入っていく時の気まずさと恥ずかしさは、経験したことのない人には分からないだろう。
先輩の記者はいつもポケットに10円玉をじゃらじゃらさせていて、夜、酒場をハシゴするたび、ニュースデスクに居場所を電話していた。私はそこまでは出来なかったけれど、休みで山に入る時も、その間に大事件や大事故が起きないように、マジで祈ったものだ。
そうした習慣が染みついた私にとっては、大学に来た当初は驚きの連続だった。例えば出張する時、ホテルや連絡先の番号を、誰もどこにも残していかない。こんなことはこれまでいた組織では考えられなかった。現在は誰もが携帯を持っているから良いけれど、そんなものがなかった時代、何かあったらどうやって対応していたのだろう。今では私も「非ほうれんそう」の方が有難いとは感じているけれど・・・。
しかし考えてみると、「ほうれんそう」が厳しく求められる組織や、そうした仕事の進め方は、世の中全体ではむしろ少数派なのかもしれない。まして外国においては、こんな24時間管理され、管理するようなあり方は、メディアの世界であってもまず見られない。欧米のメディアの世界では、新聞社とか放送局といった「組織」が新聞を発行したりテレビやラジオを送り出したりしているのではなく、「個人」の集合体が新聞社や放送局だという考えが強い。だから新聞の記者も放送局のディレクターは、何よりも「自己管理」というかたちで自分を律していくことになるのだろうと思う。
前置きが長くなってしまったが、「報告、連絡、相談」という仕事の進め方は、欧米の、特にフランスのプロデューサーやディレクターにとっては最も縁遠いものかもしれない。番組の国際共同制作の仕事に関わる中で、そんなふうに感じたことが何度もある。
番組を作るにあたってのプロセスは、「ねらいを明確にする→しっかりした構成を立てる→その構成に合った素材を有機的に組み合わせる」ということである。この過程は、日本国内だろうが外国だろうが変わらない。しかし共同制作の場合、特に重要なのはこれらの作業の各段階で、参加者同士が自分たちの考えと進捗状況を「すり合わせる」ということなのだ。安易な一般化は慎みたいが、この「すり合わせ」という作業が、フランス人はどうも苦手なようだった。
共同制作で最も大事なことは、資金の分担をどうするか、利益があがったらそれをどのように配分するかなどといったことを決めるはるか前の段階で、どんな番組を作るかということを明確にし、そのイメージを関係者全員で共有することである。そのために日本側はパートナーとなる放送局やプロダクションに早い段階から「叩き台」を提示して、参加者全員の考えを聞き、その反応を踏まえて、2案、3案と修正を積み上げていこうとする。「プロデューサーの仕事とは叩き台をいち早く作って、関係する人間すべてに示すことだ。そしてそれを通して『前線』を作り上げて、それを押し上げていくんだ」と叩き込まれてきた、そのやり方である。
しかし、こうした仕事の進め方はフランスの放送関係者にはなかなか通じなかった。それどころか、彼等の中には、「叩き台を早い段階で提示して、関係者全員の意見を求めるなどというやり方は、制作者の自信のなさの表れでしかない」と考える者すら少なくなかった。また関係者同士の連絡についても、資金集めや取材が大して動いていない段階で、「状況に変化なし」といった報告をどうして頻繁にしなければならないのか、彼等にはまるで理解できないようだった。
こちらはいわば社員プロデューサーであり、彼等の多くは独立プロデューサーであるという立場の違いも大きかった。社員プロデューサーには短期間のうちに仕事を進捗させ、成果を目に見えるかたちにしていくことが求められる。一方独立プロデューサーは、長期的なスパンで自分の仕事を考えていくことが可能なのだろう。
これまで書いてきたようなことは、アメリカの放送関係者と付き合う場合も本質的に変わるものではなかったが、フランスのプロデューサーの方がヨリ「非ほうれんそう型」の傾向が強かったことは確かだ。そして、彼等には英語で言えば、”You pay, I make.”という傾向が顕著だった。これには当時、日本の経済にバブルというものが存在していたことも大きかった。
そんなこんなで、外国や外国人を相手にして仕事をすることには難儀が付きまとったが、そうした苦労はその国や人間を理解するための、またとない機会だったのかもしれない。そんなことを思いながら、教室で学生諸君に「外国でやってみたくない?」などと声を掛け続けている。