フランス語研修参加者の声 2014春 (2)

フランス語を履修した名大生が参加する「ストラスブール短期フランス語研修」の第1回目が2014年2月~3月に行われ、極めて成功裏に終了しました。その記念すべき第1回目の参加者15名の中から、5名の方が体験記を綴ってくださいましたので、そのうちの3名分を以下に掲載いたします。(残りの2名分は(1)に掲載) 様々な学部からこの研修に参加された方たちの生の声をぜひご一読いただき、特に学部の1、2年生の方たちは2015年春の参加をお考えになってみてください。

*          *          *

 フランス語語学研修体験記

文学部2年 M. Y.(2013年入学)

 私にとって、この研修がはじめての海外でした。この研修によって、フランス語を学ぶのはもちろん、ほかにも様々なことを学ぶことができたように思います。

 まず、フランス語についてですが、授業ではレストランでの注文の仕方などといった日常会話や、発音、文法のニュアンスの違いを学びました。授業で学んだこと、特に日常会話に使える表現は午後の美術館見学などの後、お土産屋やパン屋へ行ったときに使うことができたため、単語やフレーズをスムーズに覚えることができました。また、研修の終わりのほうでは日本に関するアンケートをグループに分かれて作成し、道を歩くフランス人に声をかけ、アンケートを行いました。自分のフランス語が通じたうれしさと、フランス人の日本に対する認識が知れた面白さがありました。

DSC_0389 (480x640)
ノートルダム大聖堂

 ストラスブールでの生活は、勿論のことではありますが日本での生活とは異なるところがあり、新鮮でとても楽しいものでした。午後の活動で遊覧船に乗ってストラスブールの街並みを見たり、アルザス博物館へ行ってストラスブールを含むアルザス地方の歴史や生活を学んだりすることで、アルザス地方の文化を知ることができました。また、それ以外にもノートルダム大聖堂のある広場へ行ったり、マルシェで水やパンを買ったり、本屋へ行ってフランス語の本を買ったりと、ストラスブールでの日常生活を体験することができたと感じました。

 授業においても、午後の活動や自由時間においても、フランス語を聞き取れなかったり、自分の言いたいことがうまく表現できなかったりしてもどかしい思いをしましたが、この経験によって、もっとフランス語を聞き取れるようになりたい、話せるようになりたい、という思いが強くなり、研修前よりもフランス語を勉強するモチベーションが上がりました。

 今回のフランス語語学研修で、フランス語や、現地の文化・生活を学ぶことができ、参加することができて本当によかったと感じました。フランス文学専攻だからというのもありますが、これからもフランス語を意欲的に勉強していきたいと思います。

DSC_0181 (480x640)
コロンバージュ(木骨造)の家屋


初めての海外

経済学部経済学科 斎藤誠(2012年入学)

 私にとっての初めての海外は、今回のフランスでした。当然パスポートも初めて取得したものです。改めてパスポートの写真を見ると、ひどい寝癖です。今後十年間、私はどこか海外に行くときはこのパスポートを使うのだろうと思います。

毎日のフランス語の研修は、フランス語で行われました。「この人は何が言いたいのだろう」というのを必死に考えながらの授業です。はっきり言って、日本語で受けたフランス語の授業よりも大変です。しかし、向こうも分かってもらうために懇切丁寧に話してくれます。そうすると案外「何と言ったかはよくわからないが、何が言いたいのかはだいたいわかった」という感覚になれます。それが続くと、フランス語が話されている環境に慣れてきます。たった二週間ではフランス語が流暢に話せるというほどまでにはなれませんでしたが、フランス語に対する「ああ外国語だ」という抵抗感はずいぶんと薄れたと思います。

CIMG4484 (640x480)
ストラスブールのトラム

「食事がおいしかった」というフランス語の先生の一言が決め手となって参加した研修でしたから、二週間のうちに行けるだけのレストランに行ってみました。ストラスブールではアルザス料理という、いわゆるフランス料理とは少し趣向の違う料理が食べられるのですが、これがとってもおいしかったです!そして量も多かったです!デザートとしての洋菓子屋も多く、甘いもの好きにはたまらないと思います(正直私にとっては甘すぎるのもありはしましたが…)。それから、ワインもとてもおいしかったです。特にストラスブールのあるアルザス地方のワインはびっくりするほどきつさがないワインばかりで、私のワインに対する見方はがらりと変わりました。今回の研修では私のような2年生の参加が少なかったと記憶していますが、二年の最後でもうフランス語の授業はないから、といった理由で参加しないのは正直もったいないと思います。

日程も短いとは思えないかもしれませんし、費用もまた学生としては決して安くはないと感じられると思います。私もこれらのことでためらっていたのは事実です。しかし今のうちでなければ、二週間フランスの街を散歩したりレストランで食事をしたりする体験はできなかっただろうと思いますし、かけた費用以上に収穫と発見のある充実した日々が過ごせたと感じています。皆さんも、フランス語に興味と熱意があれば、必ず楽しめるはずです。

CIMG4738 (640x480)
レストランでの食事

チーズの穴からフランスを覗く

文学部フランス文学第二研究室3年 伊藤 鼓(2012年入学)

 フランスと聞いて、みなさんはどんなことをイメージしますか?卒業旅行先としても人気のあるこの国は、エッフェル塔、凱旋門などの建造物はもちろん、バレエやオペラ、貴重な絵画、最新のファッションなど芸術を肌で感じられる場所としても有名です。私にとっては3回目のフランス訪問。今回はフランス北部のストラスブールという街で研修を行いました。フランス女性の多くは、チーズ、ワイン、甘いお菓子を心から楽しみつつ、綺麗なスタイルを保っています。若さにこだわらず、おばあちゃんになっても変わらず素敵な魅力をふりまいているのも同じ女性として憧れる点です。そこで、私たちの案内をしてくれたストラスブール大学日本科の3年生マリーノエルさんをはじめ、フランスで出会った友人たちに、美しさを作る生活の秘密を教えてもらいました。

同い年のマリーノエルさんは、日本女性について「つづみ、日本の女の子はよく食事を抜いたり減らしたりするといわれているけれど、それは本当なの?ダイエットのため?恋愛のため?痩せすぎると魅力がなくなってしまうし、食事を少ししか食べないのは同席者に失礼にあたるわ。せっかく黒髪と綺麗な肌をもっているのに…」と語ります。食事はいわば人生を豊かにする「毎日の儀式」のひとつであり、食事を抜く、という発想はフランス女性には馴染みのないものなのです。きちんと食卓について、同席者との会話を楽しみながら食べることの大切さを、改めて感じました。少々カロリーが気になっても、好きなものは我慢せず、人生を楽しむんだ!というフランス人の考え方は、すばらしいですね。わたしも、美味しそうなスイーツをみつけたときや、ディナーに誘われたときは、ぜひフランス式に!楽しみたいものです。

__ (640x438)
ストラスブール大学の友人たちと

フランスの友人たちとは今、スマートフォンのSNSアプリを活用して、女性の社会進出、原発問題、大学の授業料の差、事実婚と婚外子など様々なテーマについてフランス語と日本語を織り交ぜながら議論しています。留学から帰ってきたとき、自分自身の価値観で、もう一度日本をしっかりみつめてみてください。きっと私たちの国の、目には見えない本当の素晴らしさがわかると思います。世界を知り、自分の国や生活を外側から眺めてみることで得られるものは、たくさんあります。これからも、日本とフランスの架け橋であるこのフランス語研修が続いていくことを願っています。

IMG_3378 (640x480)
ストラスブール到着初日の夕食

カテゴリー: お知らせ, 語学研修(ストラスブール大学) | タグ: | フランス語研修参加者の声 2014春 (2) はコメントを受け付けていません

フランス語研修参加者の声 2014春 (1)

フランス語を履修した名大生が参加する「ストラスブール短期フランス語研修」の第1回目が2014年2月~3月に行われ、極めて成功裏に終了しました。その記念すべき第1回目の参加者15名の中から、5名の方が体験記を綴ってくださいましたので、そのうちの2名分を以下に掲載いたします。(残りの3名分は(2)に掲載) 様々な学部からこの研修に参加された方たちの生の声をぜひご一読いただき、特に学部の1、2年生の方たちは2015年春の参加をお考えになってみてください。

*          *          *

 フランス語研修に参加して

医学部医学科2年 平松成美(2013年入学)

 私は言語文化Ⅰで1年間フランス語を勉強した後、1年生の終わりに研修に参加しました。ここで研修に参加して経験したことを簡単に述べようと思います。

 まず研修に参加しようと決めた理由ですが、実際にフランスを訪れて文化に触れたり、フランス語を使ったりすることに興味があったからです。ここで医学とフランス語の関連は?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん自分の専門に即した目標を立てて臨むことも大切でしょうけれど、私は1年生で時間のあるうちに、興味があって体験できるものはとにかく体験しておこう、という考えから参加しました。

 現地では期待通り、大聖堂や伝統的な家屋、現地のご家庭や学生との交流など、日本にいては見られないアルザス地方の文化に触れることができました。また2週間という比較的長い期間、ストラスブール一所に滞在したため、そこでの日常に浸ることができました。たとえばフランスでは日本よりも、お店に入ったときなど、初対面の人に挨拶をする頻度が高いですが、海外に行くといつも極度に委縮してしまっていた私は、いざ現地で過ごしてみると予期した以上に外でコミュニケーションを取れるようになりました。ほかにもトラムでの通学など、海外旅行ツアーで1、2日滞在しただけではわからない、ストラスブールでの日常生活を体験できて面白かったです。

CIMG4408 (480x640)
大聖堂上で

 そしてフランス語の授業について、私たちは大体半日をストラスブール大学でのフランス語の授業で過ごし、残りの半日を市内見学に費やしていました。現地の人とはほとんどフランス語で話さなければなりませんし、授業もほぼフランス語で行われましたから、耳はほんの少し慣れましたが、1日3時間、2週間の授業ではやはりフランス語全体のレベルはあまり上がりませんでした。しかしそれが刺激になって、帰国後もフランス語を勉強する意欲が出ました。今も中級フランス語の授業を取ったり、NHKのラジオ講座を聞いたりして、勉強を続けていくつもりです。

IMG_3409 - コピー (640x463)
語学学校での授業風景

 フランス語研修に参加して、私はこのように多くのことを経験することができました。これらのことが専門に関連するかどうかは別として、将来きっと何かの助けになると信じています。最後に、有意義な経験をさせてくださった先生方、職員の方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。そして、次回研修の参加を検討中の1,2年生の人にはぜひとも研修参加をお勧めします!

DSC_0410 (640x480)
ストラスブール市街


語学研修を終えての考察

工学部 物理工学科 量子エネルギー工学コース 2年 佐藤和也(2013年入学)

ストラスブールに行った。私がこの研修に参加しようと思ったのは、フランス語を話すことができたらかっこいいという憧れに加えて、私が自転車好きである故、ツール・ド・フランスのフランス語解説を聞き取り、理解できるようになりたいという、どちらも私欲のためだ。 フランスという異国に到着すると早速、様々なカルチャーギャップを感じた。電車の駅に改札が存在しない。安全であれば歩行者は赤信号でも横断歩道を渡る。いい加減だと思われるところが散見された。しかしよく見てみると安全の確保はしっかりしている。横断歩道の例でいうと、安全をしっかり確認せずに信号だけを守る日本の方が危ないのではないかとも思えた。なるほどこれがフランス人の合理性というものか、と納得したのを覚えている。 研修における最大の収穫は、言語を学ぶ意味と意義をはっきりさせることができたということだ。フランス語を勉強し語学として上達したことは、たとえばレストランであったり、駅の切符売場であったりと様々な場面で実感した。前述したが私は言語としてのフランス語にしか興味がなく、それの習得だけに躍起になっていた。言語の習得そのものが私にとっての目標でありゴールであった。乱暴な言い方をすれば、聞いて話せて書ければ満足だ、ということだ。しかし、フランス語によって現地の文化や習慣、価値観を知ることで自身の見識を広げることができた。おもしろいと思った。また異国の人たちの考えを言語によって共有できた。私は嬉しさを感じた。言語は人と人とをつなぐ数少ないツールの一つであり、言語を学ぶことはより多くの人の考え方を知ることにつながる。それを繰り返していくうちに物事の見方が多角的になり、その思考の仕方がときに発見やひらめきを生み出すことにつながるのではないかと研修を通して考えるようになった。それはとりわけ科学の方面において重要なことではないだろうか。このことは数年後の私にとって必要不可欠なものとなるはずだ。

CIMG4830 (640x479)
講師の先生と(右端が筆者)

 研修を終えた私には新たな目標ができた。それは海外の研究インターンシップに参加するというものだ。スイスの欧州原子核研究機構(CERN)をはじめ、特にフランスとその周辺のヨーロッパには量子物理の研究に関して秀でた研究所や大学が存在する。そこで私はその分野について学び、同じく学問する人達とともに量子物理について(言語は何であれ)語り合いたい、これが目下の目標である。

CIMG4809 (640x405)
文字配列の異なるキーボード

カテゴリー: お知らせ, 語学研修(ストラスブール大学) | タグ: | フランス語研修参加者の声 2014春 (1) はコメントを受け付けていません

河村雅隆: レジスタンス活動家のパンテオン顕彰

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

フランスの新聞を見ていてよく目に留まるのは、「50年前、100年前の今日は」といった類のコラムや記事である。そうした欄がフランスだけでなくヨーロッパの新聞や雑誌に少なくないのは、「この日にはこんなことがあった」と回顧するためだけではないだろう。「現在という時間と社会はそれを成り立たせている要因によって成り立っている」という考え方が社会とメディアの中に浸透しているからだ、と私は思う。日本の新聞人は「活字メディアにはテレビと違って、読者に取材の継続性やこれまでの蓄積を提示できる強みがある」と言うけれど、現実の紙面はそうした長所を十二分に発揮したものとはなっていないようである。

「何十年前フランスでは」といった記事のテーマとして頻繁に取り上げられるのは、第二次大戦中の事柄、特にレジスタンスの活動に関する事柄である。その活動に参加していた超高齢の人物が亡くなった時、新聞は大きな紙面を割いてそれを報じるのが常である。最近では、フランスの偉人たちを祀る霊廟・パンテオンに、レジスタンスの活動家、男女2人ずつの名が加えられたことが大きなニュースとなり、彼等が大戦中に行った活動が詳細に紹介された。

パンテオンに祀られるということはフランス最高の栄誉であり、そこにはヴォルテール、ルソー、ゾラ、ユーゴー、キュリー夫人といった偉人たちがキラ星のように名を連ねている。そこに新たに4人の名前が加えられたのである。そしてそれらの人たちが、これまで一般にはあまり知名度の高くなかった人たちであったことに、驚きを示す人たちも少なくなかった。

ところで、第二次世界大戦をめぐるフランスの立場というのは非常に微妙である。フランスは第二次世界大戦において、実際はドイツに完敗した敗戦国だった。しかし今、フランス人たちの頭の中には、そんな記憶は全くと言っていいくらい残っていないように見える。普通のフランス人たちの記憶に鮮やかなのは、フランスが最後には解放され、敵は国外に駆逐されていったということだけのようである。

そして、フランスの解放ということに関し彼等が常に強調するのは、フランス人自らが組織したレジスタンスの運動が解放の過程で大きな役割を果たした、という点である。もちろん、大西洋をわたってやってきたアメリカの軍事力が決定的だったことは彼等も否定しえない。しかし同時にフランス人の多くは、外からの力と国の内からのレジスタンスの決起が合わさって、はじめて親独ヴィシー政権の打倒と侵略者ドイツの撃退は可能になった、と考えるのである。パリ市内のあちこちにはレジスタンスの中で亡くなった犠牲者を悼むプレートが掲げられているが、それらはフランス人たちの「内からの決起があってフランスは初めて解放された」という自己主張を強烈に示している。

レジスタンスの運動を語り継ぐフランス人たちの情熱には一方ならぬものがある。レジスタンスの運動こそ、フランス人が勇気と美徳を最大限発揮した場であり、国民はドイツの占領下にあっても愛国心に燃えて解放の日を待ったと説くのである。そして、戦闘に参加しなかった人間も「受動的抵抗」を行い、最後には全員が運動に結集して祖国のために立ち上がったとされてきたのである。そうした視点から、フランスでは戦後多くの小説や映画がレジスタンスの運動を取り上げ、レジスタンスはいわば国民的な神話にまで高められた。そこではcollabo(対独協力者)の存在は、レジスタンスの闘士の活動ほど取り上げられることはなかったのである。

戦後のフランスにおいては、戦時中レジスタンスの活動に参加してドイツ軍と戦った行為は大きな尊敬の対象となった。レジスタンス時代の活動に対する評価を足掛かりに、戦後、政界に入っていった人たちはきわめて多かったのである。そうした政治家の代表は、大統領を二期14年の長きにわたって務めた故ミッテラン大統領だろう。

このように第二次大戦中、どんな抵抗運動をしたかということが重大な価値判断の基準となってきた以上、何十年も前の出来事は今も読者にとって大きな関心事であり続けているのだろう。淡白な日本人としては、戦争終結から70年近くたった今も、その時代にこれだけのエネルギーを注ぐ執着力に圧倒されるような気がする。

今回、レジスタンスの活動家4人があらたにパンテオンの霊廟に祀られることになったことについては、「フランスという国を守ろうと人々が団結した、あの時代のことを思い起こそう」という国の意志が明らかに感じられた。4人の人物を最終的に選んだのは国家元首であるオランド大統領だが、彼の行った人選をある歴史家は次のように評している。
「今やレジスタンスの時代とは、フランス人が国民的な団結を確認できる唯一の時代になってしまった」
この発言はどういうことを意味しているのだろうか。

近年、フランスの社会では多様化がますます進行している。フランス革命に端を発して確立した「国民国家」とは、本来、ひとりひとりの国民が民族や宗教、人種、階級、性別などといった既存の「属性」を捨象し、ただ一個のナシオンとなって直接国家を構成する体制のことだった。一方国家の側から見れば、国家とはひとりひとりの国民を護ることを約束する存在であり、国民と国家の間には社会契約という強い結びつきがあったのである。革命の後、共和派の人々がフランス国民のことをune et inseparable nation(ひとつにして不可分のナシオン)と呼んだのは、そのような意味においてだった。

しかし20世紀の後半以降、フランスの社会は大きく姿を変えた。今や国内には、既存の属性を放棄しようとしない小さな集団が数多く存在するようになった。国外から流入し続ける移民や、国内で深刻化する格差の問題が、フランス社会の中に数多くの小集団を産み出し、それらの存在は固定化しつつある。そのことは国民国家という体制を脅かしかねない重大な問題となっている。

上に紹介した歴史家の言葉は、フランス社会が現在直面している危機感の大きさを物語っているだろう。そして、現在フランスで進行している問題とそれに取り組んでいる姿は、まさに明日の日本の自分自身の課題でもある。

 

カテゴリー: フランス | タグ: , , | 河村雅隆: レジスタンス活動家のパンテオン顕彰 はコメントを受け付けていません

フランス旅行記 2014年春

フランス語を履修した名大生が参加する「ストラスブール短期フランス語研修」は、名大国際部が実施主体となり、フランス語科が協力して2014年 2~3月に成功裏に終了しました。ただ、多くの希望者が集まったため、残念ながら希望者全員に参加してもらうことはできませんでした。(研修は2014年度以降も継続して実施される予定ですが、今後の参加者の決定方法はまだ決まっていません。)
研修に参加できなかった人たちの一部はフランス旅行に切り替えました。以下にそうした人たちの旅行記を三つ掲載します。

*          *          *

工学部3年M.M.君
2014年2月にパッケージツアーに参加してイギリス(ロンドン)とフランスを旅行。ツアー、フリータイムを通して訪れた主なところは次のとおり。ロンドン(大英博物館、オックスフォードサーカス、ビッグベン、キングクロス駅)-(ユーロスター)->パリ(夜景バスツアー、ルーヴル美術館、シテ島観光、モンマルトルなど)->モンサンミシェル->パリ

イギリス・フランス旅行記

工学部3年 M.M. (2012年入学)

私 は2年生の秋に名大のフランス語研修に応募しましたが、希望者が多く、抽選に外れてしまい、その時は非常に残念に感じました。ですが頭を切り替え、旅行サイトで調べてみたら、イギリス、フランスの面白そうな旅行プランがありました。そこで旅行代理店に行って詳しい情報をもらい、旅行を実現させました。飛行機に乗るのは2度目、海外旅行は初めてでした。いつかは行ってみたいと思っていた場所に行け、旅行はとてもよかったです!
最初の訪問地ロンドンでは大英博物館に行きましたが、そこでは、小さいものですが実際の展示物に触らせてもらえました。見ただけじゃわからない、重さや質感が感じられとても貴重な体験でした。
イギリスからフランスへはユーロスターで入りました。海を隔てた両国が列車で結ばれていることには率直に感心しました。英仏海峡トンネルの掘削事業には日本も参加したと聞いています。

ユーロスター1 (640x480)ロンドン-パリ間の移動に使ったユーロスター

フランスで 印象に残ったことは、第一はルーブル美術館です。写真でしか見たことのない作品を生で見ることができ、またそれらの作品を間近で見られたからです。次に印象に残ったことは、地下鉄の車内で楽器を演奏している人を目撃したことです。日本の電車ではあり得ない光景でビックリしました。モンサンミシェルもすばらしかったです。

モンサンミシェル (640x480)モンサンミシェル上部にある回廊、修道僧の瞑想の場だったという
(モンサンミシェルの全景は次の旅行記に添付の写真を参照)

パリの酒屋ではワインを買いました。つたない英語(残念ながらフランス語ではなく)でしたが、店員さんと会話しワインを選んでもらったことで、ちょっと達成感を味わえました。
とはいえ、旅行に行き、もう少し語学力があればなあと思いました。もちろん、大英博物館やルーブル美術館など施設には日本語の説明やオーディオプレイヤーのレンタルがありましたが、レストランのメニューはなんとなくしか読めませんでした。
実はもう一つ印象に残っていることがあります。ロンドンで財布をすられてしまったのです。パスポートや現金のほとんどは別にしていましたが、クレジットカードが入っ ていたので止めなければなりませんでした。ホテルの方に相談したところ、とても親身に助けてもらえ、無事止めることができました。さらに、帰国後のことですが、財布が在英日本大使館に届けられ、現金はありませんでしたが、それ以外はすべてそろってもどってきました。スリが多いのは残念ですが、人の親切にもふれることのできた旅行でした。

凱旋門にて (480x640)夜の凱旋門前で

*          *          *

文学部2年M.N.君、R.H.君
二人を含む四人でパッケージツアーに参加。旅程は次のとおり。ロンドン->コッツウォルズ地方、ストーンヘンジ、ポーツマス(以上、イギリス)->サン・マロ(以下、フランス)、モンサンミシェル修道院->ロワール河流域の城(シュノンソー、シャンボール)、ベルサイユ宮殿->パリ

イギリス・フランスの旅行記

文学部2年 M.N. (2013年入学)

僕ら文学部フランス語選択の4人は、(2014年の)春休みの8日間を使って、イギリスとフランスを回る旅行に行きました。元々は、大学で提供されたフランス語語学研修に応募したのですが、大変人気だったため抽選で惜しくも外れてしまい、それでもフランスに行きたいと思ったため、個人的にパック旅行を申し込みました。 多少費用はかかりましたが、イギリスにも強い関心を持つ友達がいたので、良かったと思います。

僕はそもそも飛行機に乗るのも初めてだったので、緊張しましたが、ロンドンのヒースロー空港へ向かう機内は、飲食やAV機器のサービスが充実しており、12時間のフライトも全く苦になりませんでした。

イギリスで感激したことが2つあります。1つ目は、有名な作品・建築物を見ることが出来たことです。ロゼッタ・ストーンの現物を展示している大英博物館や、バッキン ガム宮殿、ウェストミンスター宮殿といった名所を訪れました。どれも迫力ある壮大な建物で、圧倒されました。フリータイムには、シャーロック・ホームズ博 物館を訪れ、再現されたホームズの部屋や、作中人物を作った蝋人形を見ました。2つ目は、景色が日本と全く違うことです。イギリスには羊・牛・馬などの放 牧地帯が多く、ロンドンの外に出れば地平線を見ることも容易いです。コッツウォルズという田舎町では、自然と古風な建物が調和した、幻想的な景観を楽しめ ました。

写真2 (640x480)バッキンガム宮殿前

フランスでも、多くの名所へ行きました。旅行のプランにて、モンサンミシェルやヴェルサイユ宮殿を訪れ、ロワールの古城めぐりもしました。観光地として人気のモンサンミッシェルですが、修道院だけあって、想像以上に厳かな雰囲気の場所でした。

写真9 (640x480)モンサンミシェル

写真11 (640x480)ロワール地方の古城(シュノンソー城)

ヴェルサイユ宮殿には、当時の王族の居室が再現されており、絢爛豪華な生活を送っていたことが嫌でも分かりました(笑)。フリータイムには、ルーブル美術館やノートルダム大聖堂、シャンゼリゼ通りなどに行きました。

ルー ブル美術館では、高校の教科書で見た作品を、自分の眼で直に見てきました。代表的な作品を挙げると、『モナ・リザ』や『ミロのヴィーナス』、『ハンムラビ法典』や『民衆を率いる自由の女神』といったところですが、本当に沢山の作品があり、全部見るには一週間以上かかりそうなほどです。僕らはそこで、実に贅沢な時間を過ごしました。

夜には、凱旋門に登って屋上からライトアップされたエッフェル塔を見るという、これまた贅沢な体験をしました。しかも毎時5分間だけイルミネーションがキラキラ瞬く「シャンパンフラッシュ」が見られて、とても良かったです。是非ご自分の目で見てみて下さい。

最後に言いたいことは、イギリスの人もフランスの人も、親切で礼儀正しい人が多かったことです。僕らが日本人観光客だったためかもしれませんが、皆いかなる時でも挨拶をし、店員さんも丁寧に対応してくれました。そういう時、十分なコミュニケーションが出来ないと困るし、恥ずかしく思います。海外へ行ってみて、言語能力の大切さを初めて実感出来たように思います。

photo16 (480x640)ハンムラビ法典

 

ロンドン・パリ旅行記

文学部2年 R.H. (2013年入学)

我々4人が初めてのヨーロッパ旅行に向けて出発したのは2月26日のことだった。そもそも筆者の友人はロンドンにはあまり見るべきものはないというようなこと を言って、むしろローマのようなもっと華々しいところへ行きたがったのであるが、ロンドン滞在中の計画を筆者が立てることを条件に皆了承してくれたのだっ た。

空港でのすったもんだや機内での出来事は省略して、ロンドンでの出来事だが、滞在は1日半であり移 動なども含めると実質的に1日しか自由な行動時間はなかったのである。さらに午前中はツアーが入っていたので我々が好きな場所に行くことができたのは半日 くらいなものであった。さて、ツアーではウエストミンスター寺院や大英博物館を見て回った。残念ながらバッキンガム宮殿の衛兵交代式は日程が合わずに見る ことができなかった。そしてザ・シャードである。2012年に新たにロンドン市内に誕生したこの巨大建造物に登れば、テムズ川やレンガ造りの家々がいかに も「イギリスである」と主張しているようで、とても良い眺めであった。

続いて午後からの自由時間にはシャーロック・ホームズ博物館に向かっ た。この偉大な探偵のことは名前だけなら誰でも知っているはずである(余談だが、筆者はホームズの大ファンで、実はロンドンに行きたかったのも博物館が一 の目的だったのである)。ちなみに、友人の1人には出発前に少しでもホームズに興味を持ってもらうためにもホームズの小説を数冊貸してあったのだが、結局 彼はそれらを読んでこなかったし、未だに返してもらっていない。筆者以外はそれほどホームズに詳しいわけではなかったが、それでも友人の1人は鹿撃ち帽を 買っていたし、展示物の人形や小物が充実していたこともあって、楽しんでもらえたのではないかと勝手に思っている次第である。

photo2 (640x480)シャーロックホームズ博物館

次の日はロンドンを出て、バスで一路ポーツマスに向かった。ポーツマスからフェリーに乗ってフランスまで行こうというのである。途中、ウィリアム・モリスが 「イギリスで最も美しい村」と称したバイブリーと「コッツウォルズのヴェネツィア」と言われるボートン・オン・ザ・ウォーターに立ち寄った。このW・モリ スについて我々4人は全く知らなかったのだが、彼の言もおそらく嘘ではないのだろう。確かにイギリスの田舎を代表するかのようにのどかな風景が広がる村 で、一日中雨であったのもまた雅さを際立たせていたと思う。ここで我々は初めてフィッシュ・アンド・チップスを食べたのだが、とにかく量が多い。美味しい ことは美味しいのだが、あの量は日本人には少々多すぎるようにも感じられた。

夕方ポーツマスからフェリーに乗って次の日の朝にはすでにフランスであった。1時間ほどバスに揺られてモン・サン・ミシェルに到着。多く聞く旅行パターンとは、パリに来てから日帰りでモン・サン・ミシェルまで向かう、というものだが、それに比べると今回の旅行は効率良く各地を回れるプランだったろう。モン・サン・ミシェルやヴェルサイユ宮殿、ルーヴル美術館などは言葉で説明することも不可能ではないのだが、写真のほうがより雄弁にそれらの素晴らしさを語ってくれるだろう。友人M.N. が自分の旅行記〔上掲〕に付けた写真や、友人N.S. が筆者のこの文章に寄せてくれた写真を見てほしい。

photo7 (640x480)『ナポレオンの戴冠式』
(部分、ヴェルサイユ宮殿、作者ダヴィッドが晩年の1822年までかけて完成させた二作目、1807年完成のほとんど同じ一作目はルーヴル美術館にある)

ルー ヴルでは、鹿撃ち帽を買い写真を撮りまくっていた友人についての悲しい土産話がある。彼はニンテンドー3DSのソフト、「ルーヴル美術館音声ガイド」を購 入したのだが(ルーヴルでは作品の音声ガイドに3DSを使用しているのだ!)、ホテルに戻ってパッケージを開けてみるとなんと中身は空であった。さすがに 我々の加入した保険もそんなことまでは想定していなかったらしく、結局何の保証もなく彼は空のパッケージを持って帰国することになった。ルーヴルを見て 回ってからサン・ルイ島でエスカルゴを食べ(前述の友人はこの旅行中よほどツイていなかったらしく、エスカルゴをファンタオレンジの中に落としてしまった)、ノートルダム大聖堂を見、ヨーロッパ最大のデパート、ギャラリー・ラファイエットへ向かった。特別ファッションに関心があるわけでもない男4人の旅であったから、店頭に並ぶコートやジャケットの値段を見て驚愕したのは言うまでもない(桁が1つ違うのだ。買えるわけがない)。結局中国人の女性店員が熱心に勧めてきた店で腕時計を購入した。

photo19 (640x480)エスカルゴ

夕食は別に日本食が恋しくなったわけでもないが、「サッポロラーメン」。本音を言えばチャーハンと餃子は美味しかったが、麺は少々硬かった。そのあと凱旋門 に登って夜のパリを眺めた(一日中パリを回って疲れきったあとにあの階段はきつい…)。最後の日は午前中だけ自由時間だったのでのんびりシャンゼリゼ通り を歩いた。途中入ったスーパーで万引き犯と間違えられたのはご愛嬌である。そしてシャルル・ド・ゴール空港から日本へ。

以上ざっと我々の簡単な旅行記である。大変楽しい旅行で、有意義かつ得たものも多かった旅行なのだが、筆者の個人的な心残りがあるとすればそれはやはり語 学の面であろう。英語はもちろんのこと、フランス語履修者として日常会話程度のことは話せたのだが、それでもいろいろ足りない面が多いと感じられた。この 文章を書いているときも旅行中の英語、仏語会話でのちょっとしたミスを思い出すと恥ずかしく思うと同時にニヤリと笑ってしまうのである。次にヨーロッパに 行くときまでにしっかり各言語を学んでおきたいものである。

写真19 (480x640)凱旋門上から眺めるシャンゼリゼ大通りの夜景

 

カテゴリー: フランス | タグ: | フランス旅行記 2014年春 はコメントを受け付けていません

大島弘子: CEFR (セフアール) とその語学教育への応用

2013 年9月30日に名古屋大学で開催された、大島弘子先生 (パリ・ディドロ大学、CEJ) による講演「Common European Framework of Reference for Languages: Leaning, teaching, assessment (CEFR, 外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠) とその語学教育への応用」の資料を先生のご了解の下、公開します。

CEFRは日本では簡略化して「ヨーロッパ言語共通参照枠」とも呼ばれますが、各言語のコミュニケーション能力のレベルを示す国際規格として、世界で幅広く導入されつつあります。フランス教育省の認定するフランス語能力テストであるDELF/DALFTCFは、現在どちらもCEFR (フランス語ではCECRL) に準拠しています。また、NHKの英語講座の編成CEFR のレベル分けに対応しています。

*          *          *

Common European Framework of Reference for Languages
Learning, teaching, assessment (CEFR)

その語学教育への応用

パリ・ディドロ大学
東アジア言語文化学部
大島弘子

発表内容

① CEFRの概要

② 欧州評議会とその言語政策

③ CEFRの主要コンセプト

④ 共通参照レベル

⑤ CEFRの難点と外国語教育への応用

時間があれば

⑥ ELP (ヨーロッパ言語ポートフォリオ)

 

① CEFRの概要

・誰が、何時?
- CEFR は欧州評議会(Council of Europe)、言語政策部局の後援を受けた専門家チームが制定した。
- 1996年に初版、1998年に改訂版が発行され、その後、大規模なフィードバックや議論を経て、現在の形のCEFRが英語版とフランス語版で、2001年に出版された。

・何のために ?
- CEF(R )の目的はヨーロッパの言語教育のシラバス、カリキュラムのガイドライン、試験、教科書、等々の向上のために一般的基盤を与えることである。(吉島・大橋他、2004:1)

・何が書いてあるか?
- 行動中心アプローチに基づく言語学習と言語教育の詳細な分析記述

共通参照レベル

・共通参照枠の「共通」の意味は?
- あらゆる言語に共通
- 言語学習、教育に関わるもの皆
- ヨーロッパ内の、国、教育機関、教育レベルの枠を超えて

 

②欧州評議会(≠欧州連合、EU)

欧州評議会の目標

・人権、議会制民主主義、および法の支配の保護
・加盟国の社会的、法的慣行の規範を確立するためのヨーロッパにおける合意形成
・共通の価値観に基づき、異文化の壁を越えた、ヨーロピアン・アイデンティティの自覚促進

ヨーロッパにおける文化および言語の多様性の受容を確立し、移民や外国人に対する偏見のない寛容な態度を培うことが必要

欧州連合(EU)の概要

欧州評議会の言語教育政策の目的

・複言語主義(plurilingualism)の促進
・言語の多様性(linguistic  diversity)の促進
・相互理解の促進
・民主的市民の推進
・社会的結束(social cohesion)の促進

その言語教育政策推進と成果

・言語政策部局(1957)+ヨーロッパ現代語センター(1994、オーストリアのグラーツ)
(1)1971年スイスのルシュリコンで行われたシンポの成果 ⇒ The Threshold Level (van Ek, 1975) として英語の例が出版された
(2)1991年、再びルシュリコンシンポ⇒ 全レベルのヨーロッパ共通フレームワークの開発と個人の言語学習を記録するポートフォリオ作成の提案  ⇒ CEFR誕生の契機

 

③CEFRとその主要コンセプト

・CEFRとは何か?
CEFRの目的はヨーロッパの言語教育のシラバス、カリキュラムのガイドライン、試験、教科書、等々の向上のために一般的基盤を与えることである。言語学 習者が言語をコミュニケーションのために使用するためには何を学ぶ必要があるか、効果的に行動できるようになるためには、どんな知識と技能を身につければ よいかを総合的に記述するものである。

・そこでは言語がおかれている文化的なコンテクストをも記述の対象とする。

・CEFRは学習者の熟達度のレベルを明示的に記述し、それぞれの学習段階で、また生涯を通して学習進度が測れるように考えてある。

 複言語主義(plurilingualism)

・  ≠ uc1多言語主義 (multilingualism)

・多言語主義とは
複数の言語の知識であり、あるいは特定の社会の中で異種の言語が共存していることである。

単に一つか二つの言語を学習し、それらを相互に無関係のままにして、究極目標として「理想的母語話者」を考える。

複言語主義の考え方

・個人の体験の中で、複数の言語知識やそれぞれの言語に付随する文化が、相互の関係を築き、作用しあう点を重視する
・新しい目的は(理想的母語話者を目指すのではなく)全ての言語能力がその中で何らかの役割を果たすことができるような言語空間を作り出すことである。

教育機関での言語学習は多様性を持ち、生徒は複言語能力を身につける機会を与えられねばならない

 行動中心主義

・言語の使用者と学習者をまず基本的に「社会に行動する者・社会的存在(social agents)」、つまり一定の与えられた条件、特定の環境、また特殊な行動領域の中で、課題(tasks)を遂行・完成することを要求されている社会の成員とみなす。

コミュニカティブ・アプローチとどう違うのか (PUREN 2013)

コミュニカティブ・アプローチ
・1970年代初頭
・ヨーロッパの国と国との移動を容易にする政策の中で成立
・基礎となる社会状況は、観光旅行(一時的接触)
・基礎行動は、情報交換のための言語インタラクション(外国人と話す)
・機動性、一回性、完結性、個人性
・あるコミュニケーションの場面
・教室は将来への準備の場→シュミレーション
・コミュニケーション能力
・異文化

行動主義的アプローチ
・現在
・ヨーロッパの統合進展の中で成立(多様性の中の統合)
・恒常的に外国人と生活をしたり、働いたりする
・Co-action (共に行動する、協働)
・反復性、持続性、非完結性、集団性
・ある行動
・教室自体がミクロ社会→プロジェクト
・情報処理能力
・協文化(co-culturel)

 

④共通参照レベル

・CEF日本語版の28-29(配布資料)を参考
・六段階能力記述(例示的な測定尺度表)
・Can-do 能力記述

 

⑤ CEFRの難点と外国語教育への応用

・CEFRの問題点
- 読みにくい(解説本が必要)。
- あくまで指針であって、各言語、各国各地域、あるいは各機関の状況に合わせて取り入れていくことが必要 ⇒ uc1文脈化

 CEFRの外国語教育への応用

・授業レベル、試験のレベル、到達目標などがCEFRで表記されるようになった。(NHKのラジオテキストも)
・CEFRレベルごとのデータベースのような記述書が出版。
(例) フランス語Un référentiel : Niveau pour le français. B2(2004), A1(2007), A2(2008), B1(2011)
・国際交流基金が、CEFRを参照にして「JF日本語教育スタンダード」を発表(2010)
・ フランスのグルノーブル大学とベルギーのカトリック・ルーヴァン大学は国際交流基金の「日本語普及活動助成プログラム」を受けて2010年度より「CEFR B1  言語活動・能力を考えるプロジェクト」を進行中。
http://japanologie.arts.kuleuven.be/node/8566/

  文脈化の段階

Ⅰ CEFRをもとに全言語共通カリキュラム作成

Ⅱ 各言語カリキュラム作成
タスク(言語使用の外的コンテクストを参照して領域の設定)+タスク遂行に必要な表現・語彙・文型を選ぶ

Ⅲ 年間計画表作成

Ⅳ 教案の作成→教室活動へ

 授業

・授業テーマはタスク、到達目標がCan-doリスト
Ⅰタスクの決定 : ハイキングの企画
Ⅱタスク実現のための言語活動を挙げる : 場所を探す、日時の決定、友達、先生をさそう
Ⅲ そのうちのいくつかを授業目標とする
Ⅳ その目標に適合した内容・教材・活動を教案として準備する

そして評価は ?
「何ができる?」と「どのようにできる?」

 

参考文献

· PUREN Christian (2013) « De l’approche communicative à la perspective actionnelle, ou de l’interaction à la co-action », フランス日本語教師会便り69号 www.christianpuren.com

· ヨーロッパ教師会(2005) 『ヨーロッパ日本語教育とCommon European Framework of Reference for Languages』, 国際交流基金

· 吉島茂、大橋理枝(他)(2004)『外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』、朝日出版

参考サイト

· 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ce/ (参照2013-7-12)

· 欧州評議会 http://hub.coe.int/fr/ (参照2013-7-12)

· 欧州連合 http://europa.eu/index_fr.htm (参照2013-7-12)

· 国際交流基金  http://www.jpf.go.jp/j/japanese/report/24.html (参照2013-7-15)

· 日本語ポートフォリオ(青木直子)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~naoko/jlp/support.html
(参照2013-7-17)

カテゴリー: フランス語 | タグ: , | 大島弘子: CEFR (セフアール) とその語学教育への応用 はコメントを受け付けていません

川島慶子: 徳川美術館の刀-フランス人リケジョの目線

川島慶子(科学史、名古屋工業大学准教授)

今年(2014年)の2月にフランスから研究者の友人を招聘した。長らく高校(リセ)の物理の先生をしながら科学史を研究していた女性で、現在は定年退職して、パリ大学オルセー校理学部の科学史研究室の研究員をしている。

ちなみにフランスでは、定年退職した学者が、そのままその大学なり他の研究所の研究員をしているケースをよく見かける。しかも国公立の組織で、である。日本でも長々と大学の先生をしている人がいるが、それは私立の大学に限られており、公的な組織ではまずありえない。私自身が国立大学法人(名古屋工業大学)の教員なので、フランスのこの現象がずっと不思議だった。それで、あるとき、この友人と、もう一人の70歳代の天文学者の友人(パリ天文台に毎日出勤している)にこの現象について聞いてみた。そうしたら、「もちろん給与はもらっていない。現在は年金で暮らしている。ただ、大学や天文台に自由に出入りできて、そこの図書やコンピュータを使用でき、多少の予算がもらえる」とのことだった。「なるほどね」ということで、納得したのだが、同時になかなか粋なはからいだと思った。

というのも、天文台など特にそうだが、こうした場所は研究所であると同時に、博物館的な役割も持っている。しかし現役の研究者は忙しい。そこで、知識もあり、元気な退職者が、一般開放日などに見学者との交流を受け持てば、情報も正確だし、若手の研究者はその分自分の研究時間がとれる。超高齢化社会になりつつある日本でも、このような「退職学者の有効活用」を図ると一石二鳥になっていいのでは、と思った。

話を日本招聘にもどすと、この友人は若いころから、三島由紀夫や川端康成の小説に親しんでいたので(フランスでは、日本人が考えるよりずっとたくさんの日本文学が仏訳されて読まれている)、あらゆることに興味津々だった。日本を去るときに「何が一番印象的だったか」と聞いたら、「料理」という返事が返ってきた。フランス人に「料理」と言われると、日本人としてはなかなかうれしい気分になる。和食がユネスコの無形文化遺産になったのも、単なるキャンペーンのうまさだけではないだろう。「健康的で、見た目もきれいで、素材の味をちゃんと残していて、しかもおいしい。色々なものが一度に食べられるのもすごくうれしい」というのが彼女の感想である。

この感想には、京都でおばんざいのバイキングレストランに行ったことも影響しているのだろう。しかしバイキングでなくとも、日本のレストランでは色々な種類の料理を少しずつ食べることはそんなに難しくはない。これはフランス料理にはない和食の魅力だろう。「フランス料理は付け合わせがたいてい一種類で、しかも量が多すぎる」とは彼女の弁だが、私も同感である。フランスでは「ああ、肉料理の横についているこのジャガイモの量が半分で、残りがほうれん草か何か別のものだったらいいのに」とレストランでよく思う。私はフランスの野菜が大好きだが、それでも同じものだけ多量にあると飽きるので、「この材料で日本風に盛り付けたい」と思ってしまう。

では私は彼女の滞在で何が印象的だったか、というと、彼女のものの見方であった。それも、フランス人としてというよりも、理科系の人として見学している態度に、である。一番思いがけなかったのは、徳川美術館に対する感想だった。ちょうど恒例の「徳川家のひな祭り」展をやっていたので、英語のできる学生に頼んで案内してもらった。もちろん彼女は、あの、繊細で優雅なお雛様やミニアチュールの家具に大感激していたが、これは別に驚くことではない。外国人でも日本人でも感激する。びっくりしたのは、「なぜあそこに展示してある刀には汚れがまったくないのか」と言ったことである。彼女曰く「あの刀が本当に何百年も前のものなら、普通なら内部に腐食が生じているので、どんなに研磨してもここまで完璧に光ったりしない。ヨーロッパの博物館では、この時代のもので、ここまできれいな刀の刃を見たことがない。この刀の成分はどうなっているのか。単なる鉄ではないはず」。

徳川美術館には何人もの外国人をつれていったが、こんな感想ははじめてだった。そして私は、これは理系、それも技術系の人の発想だ、と思った。と同時に、彼女がもともとは教員ではなく、エンジニアになりたかった女性であったということを思い出したのである。

この人は1947年の生まれで、日本風に言えば団塊の世代である。大学生のときに五月革命を経験している。つまりそれまでは、伝統的なフランスの価値観の中で生活してきた女性だ。エンジニアという彼女の夢は、この「伝統」の中で頓挫させられたのである。以前、彼女がその時のことを話してくれたことがある。「今でも忘れられない。高校のときに進路指導の時間があったのだけど、私が『エンジニアになりたい』と言ったら、指導官(当時のフランスでは、教員ではなく別の人間がこの任に当たる)が ”Mademoiselle, vous n’y pensez pas.(マドモアゼル、そんなことを考えるものではありません。)” と、なんとも言えない口調で私に言ったの。問答無用だった。だから私は少しでもそれに近い職を、ということで高校の物理の教師になったの。」同世代の日本女性も似たりよったりだったろう。実に日本では、この時代と比較すると、2014年現在、工学部に所属する女子学生数は100倍を超えている。少子化少子化だと騒がれるのに、である。リケジョなどという言葉が流行るなど、この世代の女性たちには信じられない現象だろう。

フランスでは今年の1月、国民議会でパリテ(平等)法が成立し、社会のあらゆる分野において男女を同数にすることが国家的使命となった。じっさい、パリ市長も女性だし(女性の東京都知事を想像できるだろうか?)、そもそも今回の選挙においては、与党だろうが野党だろうが、有力候補は全員女性だった。この国では、結婚にしても、もはや相手が異性である必要もない。

彼女がもしも今の若いフランス人の女の子だったら、間違いなく工学部に進学してエンジニアになるんだろうに、と思った。ただ、そうなると科学史研究者の私との接点がなくなってしまうかもしれないが。こういうときも「セ・ラ・ヴィ」 と言うのだろうか。ともかくも、今度徳川美術館に行ったら問題の刀を見て、日本の伝統技術の高さに感動してみようか、と思った出来事であった。

 

カテゴリー: フランス | タグ: , , | 川島慶子: 徳川美術館の刀-フランス人リケジョの目線 はコメントを受け付けていません

河村雅隆: radio périphérique という放送局

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

先にフランスの選挙予測報道のことについて書いたところ、読んで下さった何人かの方から、文中で触れたradio périphérique(周辺国のラジオ局)とはどのような放送局なのかというお訊ねを頂いた。有難いことである。そこで今回はこの点について少し記してみたい。

radio périphériqueについて語る時、まず押さえておかなければならないのは、ヨーロッパ、特にフランスの放送は1980年代の前と後とでは全くと言っていいくらい別の世界だということである。第二次世界大戦の終結から1980年代に至るまで、フランスの放送は今とは異なり、国が深く関与するラジオ局とテレビ局による独占状態が続いた。

フランスでは戦間期にはいくつかの民間のラジオ放送が存在していたが、第二次大戦後、それらは国によって接収され、最終的に1964年、国営の放送機関ORTF(フランス放送協会)となって国家の管理下に置かれた。政府が放送を独占していたという点においては、戦後のドゴール以前の第4共和政の時代も、ドゴール・ポンピドゥー両大統領の第5共和政の時代も同じことだった。特に第5共和政の時代、放送はドゴール派の政権を支えるツールとして重視され、強大な力を発揮した。ポンピドゥー大統領はORTFの放送のことを「フランスの声」と呼んだ。そして興味深いことには、ORTFから冷遇されがちだった左派の社会党も共産党も、国家による放送の独占という点に関しては、同じように肯定する姿勢を示していたのである。

そのORTFは1974年、非ドゴール派出身の初めての大統領であるジスカール・デスタンによって解体され、テレビ局としてはTF1(Télévision française 1)、A2(Antenne 2)、FR3(France-Régions 3)、ラジオではRF(Radio-France)が誕生した。しかしこれらの放送局も依然として国の管理下に置かれ、民間放送が生まれたのは、戦後初の左派政権である社会党・ミッテラン大統領の時代になってからのことである。1986年放送法はTF1を民営化し、フランスに最初のテレビの民間放送が誕生したのである。

前置きが長くなってしまったが、radio périphériqueというのは、民放がフランスでスタートする以前から、隣接する国からフランス国内を対象に放送を行ってきた仏語による商業放送局のことである。ルクセンブルクに本拠を置くラジオ・リュクサンブールや、モナコのラジオ・モンテカルロなどがその典型で、それらの多くは経営形態は当時とは違っていても、現在も活動を続けている。

では、どうしてそのような国外からの放送局が、フランス国内をターゲットに放送を行っていたのだろうか。いちばん大きな理由は、ORTFの放送があまり面白くなかったからである。ORTFの番組にはフランスの伝統や文化を紹介するものが多く、特に若い聴取者の中には内容に不満を感じる人たちが少なくなかった。radio périphériqueはそうした層をターゲットに最新の音楽や芸能番組を数多く放送し続けた。その結果、ORTFを聞く人たちの数は徐々に減少していった。また周辺国からのラジオ放送はニュース取材にも積極的で、特に1968年の5月危機の際は、ORTFのカバーしない対象を取材し、生放送も積極的に行って、聴取者の数を増やした。

*          *          *

ここで興味深いのは、民間放送が誕生するまでの時代の、フランス政府のradio périphériqueに対する対応である。当時、政府は国外から流入してくる放送を妨げようとはしなかった。そうした放送を黙認するだけではなく、むしろ周辺国からのラジオを、ORTFの放送に満足しない人たちに対する「ガス抜き」として利用しようとしていたのである。radio périphériqueの多くはフランス国内にスタジオなどの制作拠点を持っていたし、ラジオ・モンテカルロに至っては、南フランスに自前の送信所すら保有していたのである。radio périphériqueは、情報が国という枠を越えて流通する時代の先取りだったのかもしれない。

さらに面白いのは、フランス政府はSofiradと呼ばれる、いわば持ち株会社を通じて、radio périphériqueの株式を多く保有していたことである。そのことによって、フランス当局は周辺諸国からの放送を行うラジオ局の経営者の選任や放送内容に対し、影響力を行使していたのである。

何とも分かりにくい話だが、要は政府は国による放送の独占を維持しながら、放送の限定的な多様化を導入しようとしていたのである。しかし、こうしたきわめて人工的な放送体制には、時代とともに無理が目立つようになってきた。放送の多様化を求める声の高まりと技術革新の進展。放送を統治の道具としてあまりに利用してきたゴーリスム(ドゴール主義)への反発。そうしたもろもろの要素がからまりあって、ミッテラン大統領は1986年、国家による放送の独占体制に終止符を打ったのである。

しかし、民間放送が誕生して国による放送の独占がなくなったことによって、フランスでは国の放送に対する影響力がなくなったかと言えば、そうとは言えない。ルイ14世時代のコルベール財務総監以来、フランスの政治と社会には、国家主導で経済を動かしていくことを重視し評価する傾向がきわめて強い。それは「国家性善説、企業性悪説」といった考え方にも通じている。

そのような「伝統」を踏まえ、政府は放送局に対しても、人脈などを通じて影響力を行使しようという姿勢を今も崩していない。フランスの新聞を見ていると、人事を報じる際、’ Y proche de X(X氏に近いY氏)’ といった表現に頻繁に出くわすが、そうした人間関係の重視は放送界に対しても依然として及んでいると言われる。フランスの放送局を訪ねると、以前は政治家のスタッフとして、あるいは官庁で働いていたという幹部と出会うことは珍しくない。付言すれば、フランスの官庁の一定以上のクラスの公務員は、日本で言うところの特別職であって、政治家に従って入省し、そこで官房を形成することがごく当たり前に行われている。日本でそうした人事が定期的に行われているのは、大臣の政務秘書官くらいのものだろう。

radio périphériqueの話から最後はやや脱線してしまった。他所様の国のことを正確に理解することは本当に難しいが、以上のような話は、2014年度後期に参加する教養の「文化事情(フランス)」という授業でも触れられないかと考えている。

カテゴリー: フランス | タグ: , , | 河村雅隆: radio périphérique という放送局 はコメントを受け付けていません

脇田泰子: フランス語という宝物(1)

脇田泰子(ジャーナリズム論、椙山女学園大学 文化情報学部メディア情報学科 准教授)

1.なぜ、人は外国語を学ぶのか
縁あってフランス語をかじり、長年、学んできた。しかし、大学ではジャーナリズムやメディアについて教えている。学生たちは、そんな私をフランス語がわかるとは思ってもいない。新学年を迎え、この春こそは○○語の勉強をしようと意気込みを新たにする人も少なくないだろう。NHKでも新年度からEテレやラジ オで放送が始まる語学番組の宣伝に余念がない。言うまでもなく、最近の講座テキストにはスマホ仕様の電子版もある。番組PRのキャッチフレーズは「おもて なしは“コトバ”から」。2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定し、来日する外国人もぐんと増える。彼らの言葉を身につけることによ り、自由に話をし、視野を広げて、世界とつながりたい。その気持ちはわかる、しかし・・・と、語学の勉強に多少なりとも勤しんだ人ならば、すぐに疑問を感 じるはずだ。

いったい、なぜ人は外国語を学ぶのだろうか。さらには習得したとしても、それが何の役に立つというのだろうか。改めてそのことをつらつら考えていたところ、国際言語文化研究科の関連部局、教養教育院のホームページに「学生の皆さんへ」と題した「外国語科目への招待」http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/dep/Welcome.htmlと いうページを見つけた(そこから、このフランス語科のホームページへと辿り着けることも今回、初めて知った)。そこでは、「外国語を学ぶことは自分自身にとっての『世界』の範囲を広げることだとは思いませんか?」と、読み手にさり気なく問いかけたうえで、「多くの言語を学び、様々な文化や歴史をになう人々 を知り、自分の世界を広げてみませんか。それはきっと一生の財産となることでしょう。」といざなっている。なるほど、中学生のころからフランス語と付き 合ってきた私にも、フランス語がぐっと押し広げて見せてくれた様々な世界が、確かに宝物である、と今さらながらに実感できる。

2.フランス語との出会い ~ モージェとパノラマ ~
父の転勤により、13歳で突然、家族ともどもパリに暮らすことになり、現地の学校に通い始めた。否応なく、フランス語と初めて真剣に向き合うことになった のである。英語や数学のように、言葉がわからなくても、ある程度はついていけそうな科目以外の時間帯に、別室で特別授業としてフランス語を文字通り、一から教えていただけることになったからだ。(尤も、中1レベルの学力しかなかった私は、英語もまた、フランス語とほぼ同様に理解できず、相当な困難を伴ったのが事実である。が、それはさておき、)フランス語の先生は、マダム・ルショー Madame Lechaux という御年70歳くらいの老婦人だった。紹介されるなり、私は白人にはこんな髪の色の人もいるのかと目を見張ったが、よく見るとオール白髪を、日本では当時(少なくとも私)はまだ目にしたこともない明るい紫色に染めているのだった。彼女は、そのミッション系私立女子校で長年、国語を教え、引退後は学校の敷地の一角に建つ別棟の2階の部屋に一人で暮らしておられた。言葉のわからない私に対してだけではなく、誰とでも話をする際はゆったりとしたリズムでにこやかに、いつもヒールの革靴を履き、身のこなしも非常に優雅で、ネックレスがよく似合う人だった。そんな先生の姿を目にし、私は、日本でずっと一緒に暮らしていた同年代の祖母のことを思い出し、先生のおっしゃることを懸命に聞き、早くフランス語が上手になりたい、と素直に願った。

MaugerBleu先生がテキストとして用いたのは、“モージェ・ブルー(Mauger Bleu)”と誰もが呼びならわす青い表紙の本で、真ん中にオレンジ色の字でcours de Langue et de Civilisation Françaisesと書いてあった(画像)。

しかし、その正式タイトルが、どんな意味かを調べようという発想もなければ、その本がフランス語を全く知らない外国人向けにフランス語で教える教科 書として書き下ろされた名著で、通称はガストン・モージェ(Gaston Mauger)という著者名に由来することも、ずっと後年まで私は知りもしなかった。フランス語とフランス文化を世界中に広めるため、1883年に創立さ れたフランス政府関連機関、アリアンス・フランセーズ(Alliance Française)は、世界各地にフランス語学校を設立したが、Maugerは、その代表格であるパリ校で1940年代から外国人にフランス語を教え、 戦後は校長も務めた経験を基に、学校の正式テキストとして、この本のシリーズを1~4巻まで記した(それ以外に、モージェ・ルージュ Mauger Rouge 赤モージェも存在する)。初版は1953年で、その5年後には、アカデミー・フランセーズ(Académie française)の「フランス語賞(Prix de la langue française)」を受賞するに至った。言わずもがなのことではあるが、アカデミー・フランセーズとは、フランス学士院(Institut de France)を構成する学術団体の中でも最高の権威とされ、正しいフランス語の守ることを使命に、ルイ13世治下の1635年、宰相リシュリュー (Richelieu 1585-1642)が設立した。さすがは「フランスの言語と文明に関する講義」と銘打たれた堂々たる内容ならでは、の功績である。第1巻の最後の方だっ たかと思うが、夏休みが始まる7月25日の朝、主人公のヴァンサンさん(M.Vincent)が家族とニューヨーク旅行に出かける前に身支度をする場面がある。石鹸で顔を洗い、タオルで拭き、電動シェーバーでひげをそり…と文法的には代名動詞の再帰的用法を学ぶところだ。「前夜に風呂に入った」彼はすぐに 支度が済むが、対するマーガレット(Margaret)夫人は朝から1時間も風呂場を占拠し、お化粧に熱心でなかなか出てこない。唇には口紅、爪にはマニ キュア…と、こちらも描写がやけに念入り(だから語彙も多い)!「もう終わったかい?列車の時間に遅れるよ。」と夫がしまいにじれる辺りのユーモアも含 め、“フランスの文明”が、ヴァンサン一家の日常生活のそこかしこに転がっている。

その古典的な名著の第1巻から漕ぎ出したはいいが、本文はもちろん、文法の説明から練習問題の指示まで、全てフランス語で書かれていて、私は当初、 文法用語も仏和辞典で必死に探し、日本語で理解しようとしたが、ちっとも巧く行かなかった。なぜか。たとえば、la conjugaison des verbes とあるのを辞書で引き、「動詞の活用」とわかっても、それ自体が何のことかを知らなければ、日本語に置き換えたところで、それこそ意味がないからだ。すぐ に私は、文法に関しては辞書を一切、引かず、「そういうもの」だとして、そっくり丸覚えするようになった。しかし、本文の各ページには知らない単語がうん ざりするほど出てくる。さらには、Madame Lechauxの説明も何を言っているのか、理解できる手立てはさっぱりない。私が怪訝な表情を浮かべる度に、先生は私の仏和辞典を手に取っては、「ほ ら、これよ。」と単語を指し示し、「どう、わかる?」と顔を覗き込んだものだ。今でもよく覚えているのは、panoramaという語に出会った時のことで ある。先生はいつものように辞書のページを繰り、「これね、わかる?」と聞いた。「ノン、わからない。」「おや、なぜかしら?」「だって『パノラマ』って 書いてあるから。」と私が答えると、先生は突然、あはは、と大きな声で笑い出した。「それじゃあ、何の役にも立たないじゃない、辞書なのに…面白いわ ねぇ。日本語でもパノラマなの。」女学生のように無邪気に笑い転げる姿が、普段のエレガントな空気感と余りにもかけ離れていて一瞬、呆気にとられたが、心底おかしいと思っている様子が手に取るようにわかり、私もつられて笑ってしまった。そのまま二人で2分間くらい、最後はなぜ笑っているのかもわからないほ ど、腹筋は痛く、涙も出そうだった。会話さえろくに成立し得ない者同士であっても、あんな風に笑い合うことも可能なのだ。

語学の話ではあるが、「人間のコミュニケーションは言葉だけではない」と聞く度に、この時の情景が思い浮かぶ。と同時に、パノラマの一件は、フランス語が絶望的にわからない中で、それでもフランス語だけで教えを受け、わかりたいと必死にもがく日々に俄かに降って沸いた至宝のようなハプニングでもあっ た。「わかる」とは何なのか。通常、新しい語学を習うにせよ、日本にいる限り、私のように極端な経験をすることは少ないだろう。しかし、教わる通りにひた すら学ぶ以外の何ものも持たず、さりとて、それをずっと続けても、なお理解するという現象がまったく訪れてこない暗澹たる状況下に、ひとり置き去りにされ たままの私にとって、Madame Lechauxの屈託のない笑い声は、まさに救いという宝であった。大丈夫、幼い子が何もない中から自然に言語を獲得していくように、それよりは多少、時 間がかかるとしても、いつかきっと、必ずわかるようになるものよ。だから、ゆっくり焦らず、少しずつ進んでいけばいいのだ。先生の笑顔が、なぜか、そう 言っているように思われ、私は意味の伝わらない仏和辞典に憤慨するどころか、むしろ感謝さえした。それこそ、フランス語を学ぶ道を歩むのに、“パノラマ” のような広い眺めを得られた訳ではまったくなかったが、だとしても、あの時、確かに覚えた希望の手応えは、今も実に懐かしい宝物の一つになっている。そして、何事にせよ、結果がなかなか出ず、苦しいばかりの時には、あの時の感慨を思い起こす。

「フランス語という宝物」のタイトルのもと、フランス語は、語学の知識以上にその後も、あらゆる段階でそれに見合った宝物を私に授けてくれるようになるのだが、自宅以外でのコミュニケーション不能という“受難”に突然、見舞われ、どうしたらその渦中から逃げ出せるかという思いでしか物事を眺めること ができなかった当時の私には、まだ、そんなことは知る由もなかった。(続)

カテゴリー: フランス, フランス語 | タグ: , , | 脇田泰子: フランス語という宝物(1) はコメントを受け付けていません

河村雅隆: フランスの選挙と世論調査

河村雅隆(メディア論、名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)

先日の東京都知事選挙は、ご存じのとおり舛添要一氏の圧勝だったが、選挙の終わった後、メディアが伝えた事前の世論調査、つまり選挙結果の予測のあり方について、インターネット上で少なからぬ人が発言を行っている。世論調査に批判的な意見は、「新聞などがさかんに『舛添圧勝』と報じたために、かなりの数の有権者が『結果がそうなると分かっているのなら、投票に行っても仕方がない』と思い、一票を投じなかった。その結果、選挙結果はメディアが予想したとおりになってしまった」というものである。この主張が正しいかどうかは分からないが、現在行われている選挙の予測報道にいくつかの問題があることは確かだろう。

最大の問題は、回答する人がはたして全有権者を正確に反映しているのかという、サンプリングの問題である。選挙に関する世論調査では放送局も新聞社も、コンピューターで無作為に発生させた番号に電話を掛けて回答を求める、RDD(Random Digit Dialing)という方法を採用している。全国を対象にした調査であっても、その対象はせいぜい千人か二千人である。

しかし、問題は人数ではない。電話を入れるのはすべて固定電話の番号であって、そこには携帯は一切含まれていないという点が、問題視されるようになっているのだ。つまり現在の調査対象の抽出の仕方だと、固定電話を持たずに携帯しか使っていない人間は、一切リサーチの対象にはならない。しかし、現代においては携帯しか持っていない人は珍しくない。若い世代だったら、むしろ携帯だけの人の方が多数派ではないだろうか。かく言う私自身だって、電話は携帯しか持っていないのだ。

元々、電話調査は電話帳から抽出した個人に電話するというかたちで行われていた。しかし、1990年代以降、電話帳に自分の電話番号を載せない人が増えたことから、2000年頃から上記のRDDという方法が採用されるようになったのである。しかし当時、携帯やスマホがここまで普及してくるとは誰も予想できなかった。

電話調査にはもうひとつ問題がある。当たり前のことだが、抽出された番号に調査員が電話を入れた時、相手が電話を取ってくれなければ調査にはならない。ということは、電話口にいることの多い人たちの層の答が、電話調査の結果には反映されやすくなるということである。具体的に言えば、在宅の可能性が高いのは高齢者や年金生活者などである。現行の電話調査のあり方を批判する人たちは、調査主体が地域別、性別、年代別などの構成比のゆがみをなくす補正をしているとは言っても、在宅時間の長い人たちの答が調査結果を「引っ張っている」と主張する。そして、その結果算出された「偏った」数字がメディアの上で独り歩きして、有権者の投票所に行く、行かないといった行動にまで影響を与えているという。つまり、マスメディアのいわゆるアナウンスメント効果が、以前よりずっと強くなっていると批判するのである。

*     *     *

選挙の事前予測報道と公正な選挙をどのように両立させるかというのは、非常に難しい課題である。フランスでも大きな選挙があるたび、新聞も放送も事前に予測の調査を活発に行う。そしてその精度はきわめて高く、フランスは先進国の中で最も世論調査が的中する国だと言う人もいるくらいである。
この選挙と世論調査という問題について、フランスは長い間、独特のやり方で両者を共存させようとしてきた。1977年7月19日法という法律が、「新聞や放送は、選挙の結果予想を投票日から逆算して一週間以内に公表してはならない」と定めていたのである。言うまでもなく、投票日直前の選挙予測の発表は有権者に予断を与える恐れがある、と考えられたからである。

しかしこの規定に対しては、メディアや法律学者から、「世論調査を行って、その結果を公表し、解説を加えることは報道の基本であり、民主主義の基礎をなすものだ」という批判が絶えなかった。そうした意見を受け入れるかたちで、1977年7月19日法は2002年に改正され、選挙に関する事前の予測は、現在では投票日前日と投票当日には公表してはならないことになっている。従来の規定の大幅な修正である。

1990年代前半、ヨーロッパにいた時のことである。国民議会の選挙だったと思うが、投票日直前、パリの新聞スタンドにデカデカと「選挙の結果予測、最新情報速報」というポスターが貼られているのを見たことがある。「あれっ、投票日までもう一週間を切っている筈だが」と思いつつ、宣伝文句に惹かれて一部買ったら、何とそれは隣国スイス・ジュネーヴで出されている新聞だった。スイス西部のジュネーヴはフランス語圏だから、そこではいくつものフランス語の新聞が発行されている。そんな新聞社がフランス国内で世論調査を行い、その結果を掲載した新聞が大量にパリに持ち込まれていたのである。そもそもスイス西部の人たちにとっては、フランスの選挙は「国内問題」なのかもしれない。

放送の世界でも、radio périphériqueと呼ばれるルクセンブルクなどの放送局が、意図的にフランス国内をターゲットに放送を行っている例がある。そうした放送局はフランスの国内法の決まりなどお構いなしに、選挙の予測などを放送してきたのである。活字でも電波でも周辺国からの情報の流入は止められないということも、法律改正の背景にはあったのだろう。

それにしても、新聞持ち込み作戦はアイディア賞ものだな、と妙に感心したことを覚えている。もっとも、投票日の2日前まで選挙の予測を報道できるようになった今では、こんなことはもう行われていないだろう。フランスのメディアにとって、予測の「自由化」は良いことだったのだろうが、密輸入された商品をこっそり見るような楽しみがなくなった、と残念がっている読者もいるかもしれない。

カテゴリー: フランス | タグ: , , | 河村雅隆: フランスの選挙と世論調査 はコメントを受け付けていません

Teaching Assistant経験者から(M.T.ファル)

私の経験

マウル・タラ・ファル Maouloud Talla FALL
関連記事はこちら

日本人学生にフランス語を教えることに協力しようと決めたことは大きな挑戦でした。言葉を用いてどのように人々が互いを理解し、自分を表現できるか を知ることが大事だと思います。私は優れた学生たちに出会い、彼らは、自分に閉じこもっている国だと見られている日本のもう一つの顔を見させてくれまし た。
私が会った若者たちは考えを伝えようとし、思考を共有しようとしていました。サポートした先生は多方面の経験を具え、学生たちにとって父であり、兄であるように接するすべを心得ていました。
こうした覇気に富んだ若者たちの教育に協力するために、またできたらいいなと思える経験でした。(2014年2月4日)

Mon expérience
Décider de participer à enseigner le français à des étudiants japonais a été un grand défi. C’est important de voir comment avec la langue des personnes peuvent se comprendre et s’exprimer. J’ai rencontré de brillants étudiants qui ont montré une autre face du Japon que certains pensent être un pays fermé sur lui-même.
J’ai vu des jeunes qui avaient des idées à exprimer, des pensées à partager avec l’aide d’un professeur doté d’une expérience totale, qui a su être un père, un frère pour ses étudiants.
C’est une expérience que j’aimerais renouveler pour participer à la formation de ces jeunes ambitieux.(4 février 2014)

マウル・タラ・ファル
1983年、セネガル Sénégal の首都ダカール Dakar に生まれる
2004-2013年、セネガル、サン=ルイ市、ガストン・ベルジェ大学 Université Gaston Berger de Saint Louis の学士、修士、博士課程で社会学、特に開発社会学を学ぶ
2011-2014年、名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程在籍
2013年度後期初級フランス語でティーチング・アシスタントを務めた

OLYMPUS DIGITAL CAMERA(翻訳: 飯野)

カテゴリー: 名大のフランス語 | タグ: , | Teaching Assistant経験者から(M.T.ファル) はコメントを受け付けていません